◆ 荒尾市・岩本橋 

場所 岩本橋(いわもとばし)は、熊本県荒尾市上井出にあります。ここは福岡県との県境にあり、江戸時代は肥後と筑後を結ぶ三池往還の重要な場所で、藩の関所があった場所です。熊本市からは河内町・横島町・長洲町を経由して、県道46号線を北上します。目印は平井小学校があり、現地は公園化されていますので、広い駐車場が完備されています。

岩本橋は、関川に架けられた石造りの眼鏡橋です。全長32.7m、幅4m(道路3.4m)、高さ7.4mあります。二連のアーチの直径は各々12.5m、12.6mあり、やや扁平な楕円になっています。阿蘇凝灰岩を使用して造られています。昭和40年2月25日に熊本県の重要文化財に指定された岩本橋は、誰が造ったのか、いつ架けたのかがわかっていません。熊本県八代郡東陽村種山の石工・橋本勘五郎が明治4年頃に、工事責任者となって架橋したのではないかと伝えられています。橋本勘五郎は、皇居の二重橋を造ったことでも有名です。

二連のアーチのうち、一つのアーチの下には水が流れていません。これは昭和37年7月の集中豪雨で橋の一部が破壊されたため、新岩本橋を造るとともに川に分水路をつくり橋を守る工夫がされたためです。写真は橋の水切りです。この部分は常に川の流れにさらされるため、橋脚を守るために水の抵抗に強い小岱石を使用しています。

荒尾市教育委員会設置の現地案内板より

岩本橋は関川に架けられた石造りのアーチ橋である。川幅が広く岸も低いので一つのアーチにすれば橋の高さが異常に高くなるところより、二つのアーチの設計を石工たちは考えたのであろうが、そうすると川の中央に基礎がくるので川の流れを阻むし、橋の根元が洗われて危険であった。そこで、石工たちは橋脚に水の抵抗に強い小岱石を運び、壁石を壊さないように「水切り」を上流と下流に設け水流をスムーズに両側に分けるように工夫した。アーチは厚さ60cm余りの43個の輪石で組み、その上には整然と切石を積み上げ水平床にし、人や車の往来を便利にするように造り、床の左右に高欄を設ける。高欄は地床に沿って地覆を据え束石をたて笠木を載せた素朴なものであろうか。それらの数か所に浮彫装飾が施されている。その中には八弁及び十六弁の菊花文がみられる。
この工事の石工や竣工年月は瞭らかでないが、熊本県八代郡東陽村種山の石工橋本勘五郎が明治4年頃工事責任者となって架橋したのであろうと古老はいっている。勘五郎は明治6年3月上京し内務省土木寮に勤務し宮城二重橋等を架設し、肥後名工の名声を高めた。勘五郎が矢部の通潤橋架設の際用いた橋枠の模型をみると厚さ二寸、幅八寸の板で橋の形の枠組み大工が作り、この枠の中に輪石を積みこみ最後の要石をはめこんで枠を外すと奇妙な音をたて橋がしまる。もし橋が壊れる場合工事責任者は切腹するのが橋かけの不文律であった。岩本橋をみるとき当時の命がけの仕事振りが窺える。
昭和37年7月4日 397ミリの集中豪雨が橋を襲い橋の一部が破損したので道路改修の一環として新岩本橋を新設するとともに、分水路を開墾し橋を災害より守り、昭和60年度より三ヵ年計画で関川環境整備事業がなされ観光資源としての価値も高めた。