◆ 東陽村・橋本勘五郎生誕の地 

場所 橋本勘五郎の生家の所在地は、八代郡東陽村大字北です。熊本市から国道3号線を南下して宮原町へ行きます。宮原町から国道443号線を利用して、東陽村へ向かいます。石橋公園で左折して氷川を渡り、直進すれば「石匠館」に着きます。この石匠館の目の前の民家が橋本勘五郎生誕の地となります。

この石垣は、山間地でよく見かける風景です。民家の石垣や畑の石垣も、このような自然石を利用して高く積まれています。河原の石なのか、それとも開墾したときに出てきた石なのかはわかりません。それにしても、熊本城の石垣と同じように美しく並んでいます。

次の文は、生誕の地に掲げられていた説明書きです。東陽村教育委員会が設置しているものです。

種山石工 橋本勘五郎生誕の地
橋本勘五郎は、ここ東陽村(旧種山村)の西原の地に、石工嘉八の三男として文政5年(1822年)6月に生まれました。血縁者はほとんど石工で、この一族は県内はもとより九州、東京に数多くの名橋をかけています。
安政元年(1855年)竣工した矢部町の通潤橋の架設にあたって、勘五郎は天才的な技能を発揮しその技術が認められ、明治6年には明治政府から招かれて上京、宮城の二重橋を架設しました。このほか江戸橋、日本橋、浅草橋、万世橋などの名橋を手がけました。
明治7年には熊本に帰り、熊本市の明八橋、明十橋、菊池市の竜門橋など多くの眼鏡橋を残しています。明治30年8月15日、76歳で勘五郎はこの世を去りましたが、彼の架設した眼鏡橋は一体幾つあったのか、はっきりとはわかっていません。眼鏡橋の美しさは、彼の美しさそのものであったようです。
熊本県教育委員会は、昭和40年11月3日彼を熊本県近代文化功労者として顕彰しています。 東陽村教育委員会