吉 次 峠

吉次峠(きちじとうげ)は、明治10年(1877)の西南戦争で、「地獄峠」と恐れられた場所です。半高山に近く、峠はきれいな公園になっています。この長い石段が、吉次峠公園の入り口になります。西南戦争に従軍した熊本隊一番小隊長佐々友房は伊倉方面に向かったが、2月26日の寺田の戦いに利はないとして、吉次に撤退してきました。

この記念碑は、長い階段を登りつめた場所にあります。ここも小学校の歓迎遠足に適した場所です。写真の石碑は、佐々友房の詩歌で、かっての教え子の安達謙蔵の書です。昭和45年6月1日、町文化財に指定されました。

写真右側が吉次峠になります。左側は半高山のすそのになります。道の両側は開拓され、玉東町の産業の中心となっているミカン畑です。西南戦争当時の写真をみますと、周辺は雑木林で見通しも悪く、道幅はもっと狭かったようです。田原坂、横平山、二俣、半高山、吉次峠と結ぶ線上で、官軍と薩軍の激しい戦いがありました。4月1日官軍の進攻を阻止していた半高山が破れたため、佐々友房は吉次峠の守りを撤去して、三の岳山中に陣を移しました。

この碑は、熊本隊一番小隊長佐々友房が死守したことを示すものです。木葉から熊本へ向かう官軍に対して、佐々友房は勇敢に戦いました。

吉次峠激戦の地 〜 現地の案内板より一部
明治10年(1877) 2月26日、寺田の戦いに敗れた熊本隊一番小隊長佐々友房は撤退し、この吉次峠に拠る。佐々は憤然として隊士に向い 「ああ吉次は城北随一の要害である。今これを失えば百の西郷あるともなお熊本を保つべからず。」という。従う者感泣して死守を誓う。