横 平 山

横平山(よこひらやま)は、玉東町の東部に位置します。山北の子どもたちは、ここ横平山へ歓迎遠足にでかけたり、遊びに行ったりします。今は立派な公園として整備されていますが、田原坂・吉次峠とともに、西南戦争の激戦地として知られています。記念碑や慰霊碑がいくつも建てられています。写真に見えるのは、平成6年に建てられた「慰霊碑」です。展望もよく、玉東町のほとんどを見渡すことができます。

写真は「西南役激戦蹟の碑」になります。熊本自然休養林の県指定をうけ、昭和48年県立公園施設設備の一環として展望台が完成しました。田原坂と隣接し、遠く阿蘇の連峰を望む景観はすばらしく、春から秋にかけてハイキングに最適の場所です。昭和45年6月1日、町の文化財に指定されました。

上の写真は、西南戦争当時の塹壕(ざんごう)跡です。官軍と薩摩軍の抜刀隊がはじめて活躍した場所です。5〜6mの位置で向かい合い、交戦したとのことです。官軍の死傷者は、224名と現地での案内板に記されています。

平成9年6月の「広報ぎょくとう」より一部転載
横平山は標高104mの小高い山で、南の三の岳から吉次峠、半高山と北に連なりその末端に位置する。明治10年の西南戦争ではこの横平山の争奪戦は最も熾烈を極めた。薩軍の切込み隊と官軍の警視抜刀隊の白兵戦の死屍は山を覆い、その惨状は西南戦争の中の三大激戦の一つにあげられる激しいものであった。
明治10年3月4日より二俣口の戦いが始まったが、連日の一進一退の戦況で、3月9日官軍は横平山を占領すれば二俣・七本・田原坂を突破することが容易であると認識した。この日より横平山の争奪戦が連日繰り返され、3月15日、官軍が占領するまで、激しい戦いが続いた。