薩軍兵站跡 

明治10年(1877)の西南戦争において、飲料水として使用された井戸(湧水池)です。玉東町の横平山の登山道にあります。兵站(へいたん)というのは、軍隊の後方にいる支援部隊のことです。食料・水・武器・弾薬等を補給します。薩摩軍も官軍も負傷兵は、水を求めてこの湧水池にたどりつき、何百という兵がここで絶命したということです。

山北校区には、湧水が多く見うけられます。年の神、千年杉、西安寺等にもあります。上水道などなかった時代ですから、このような湧水の井戸は、村の人々も大切にしたと思います。現在は使用されていません。

薩軍兵站の地(説明書きより)
明治10年(1877)3月9日、官軍は二俣から南方の五郎山を攻撃した。突破できずに後退したが、横平山の重要性を見て、この山を攻撃、三つの薩軍陣地を奪取した。この横平山を官軍が完全に占領すれば、二俣・七本・田原坂を突破することが容易となり、この日よりこの横平山をめぐって一進一退の争奪戦が連日くりかえされた。その間、守る者も攻める者も飲料水はこの湧水だけなので、官薩両軍の負傷兵は、この湧水池にたどりつき絶命し、この附近に死体が幾百とも数知れず、そのためにこの湧水池も負傷兵の血で真っ赤に染まっていたといわれる。