篠原国幹の墓地 〜しのはらくにもと

明治10年の西南戦争で、薩軍の一番隊長を務めたのが、篠原国幹です。約2000人の兵を指揮していました。篠原国幹は無口で潔癖であり、薩摩人に大変慕われたそうです。また無口で有名な池辺吉十郎がある日篠原邸を訪れ、朝から夜まで酒をつぎご飯を食べたのに、互いに一言も口を開かず酒席が終わったという逸話が残っています。

 

篠原国幹戦死の地(現地の説明書きより)
明治10(1877)3月4日、薩軍一番大隊長篠原国幹は、緋裏の外套をまとい、銀装の太刀をおびて、率先陣頭に立って戦闘の指揮をとっていたが、顔見知りの同郷の後輩、近衛歩兵第一連隊第二大隊長江田国通少佐の指示する狙撃にあい東上の雄図むなしくこの六本楠の地にて戦死した。
一方狙撃を指示した江田国通少佐もまた、報復の念に燃える薩軍の銃弾によって戦死、薩軍の猛撃により、官軍は高瀬に撤退した。この戦闘は激しく、この日官軍が撃った小銃弾は数十万発だったといわれる。この日以後官軍は吉次峠のことを「地獄峠」と呼んだ。

ここ篠原国幹の墓地は、吉次峠の展望台からはいくぶん離れています。春の桜は見事で、地域の方も花見にやってきます。見晴らしもよく、玉東町全体が見渡せるほどです。周辺は三の岳のすそ野ですから、みかん山になっています。