谷村計介の墓

宇蘇浦官軍墓地の中に、谷村計介の墓があります。玉東町木葉小学校の西側に位置します。徳成寺東側の道を北へ進み、斜面を登りつめた所にあります。高月官軍墓地とともに昭和52年に県指定の重要文化財になりました。

陸軍伍長従五位谷村計介の墓は、墓石の角が鉄枠で囲まれています。これは谷村計介の幸運にあやかりたいと墓石を打ち欠いて、お守りにする人があとをたたないからです。今でも墓参りする人がいて、花が備えてあります。墓石の前には、二株のサカキが植えられています。

谷村伍長は熊本城が薩軍に包囲されたとき、2月25日に連隊長の命令で城を脱出しました。なべ炭を全身に塗りぼろを着て、農夫に変装し深夜城を出ました。谷村伍長は本妙寺(熊本市)の裏山に出て、玉名市高瀬の官軍本営に向かいました。途中薩軍に捕えられましたが、運良くのがれました。吉次峠では、佐々友房の隊にもつかまっています。2月28日高瀬の官軍本営に到着し、野津少将に城中の様子を報告し目的を達しました。その後3月4日田原坂の戦いに参加して、戦死しました。年25才。大正13年2月11日改めて功績をたたえ、従五位が贈られました。

「谷村計介の碑」は、田原坂の三の坂にあります。現地の説明書きを紹介します。

宮崎県諸県郡倉岡の生まれにして、明治5年徴兵により歩卒として熊本鎮台に入隊する。明治7年2月佐賀の乱に際して戦功をあげ、6月陸軍伍長となり、8月第11大隊に属して征台の役に従軍した。明治10年西南戦争に際しては熊本城内にて守備軍として活躍し、命により密使として征討軍本営との連絡にあたり、使命を果たし、再び第一線に参加して、3月4日田原坂にて戦死する。25才