西南戦争乃木少佐奮戦の地

玉東町の国道208号線を西に進みます。玉名市に近い場所に位置しています。国道沿いに木製の案内標識があります。ここは乃木少佐が2月23日に薩軍に囲まれ、落馬した場所になります。

乃木少佐奮戦の地(現地の説明書きより)
明治10年(1877)2月22日、小倉駐屯の熊本鎮台歩兵第14連隊(連隊長乃木少佐)は、南関・高瀬を経て熊本へ前進中、植木南方1kmの向坂にて薩軍より攻撃をうけて敗れ木葉に撤退した。この戦いで連隊旗手河原林少尉は戦死、連隊旗を奪われた。
翌23日、木葉の戦いで第三隊長吉松少佐の戦死もあって、この地に後退して奮戦したが、北方の木葉山頂より薩軍の一隊が急襲したので、白兵相打つ混戦となり、乃木少佐は薩摩兵に囲まれた。乃木少佐の乗馬も銃弾に倒れ、少佐も転倒した。薩軍刀をふるって迫り、少佐を斬らんとしたした。大橋伍長その間に入り斬られ少佐を助けた。摺沢少尉試補もまた助勢したしたので、九死に一生を得て木葉川を渉り、寺田山にのがれ、更に高瀬北方5kmの川床にて隊を集結した。

 

 

乃木大将連隊旗喪失事件(西南の役・歴史紀行より)
この戦いで軍旗を奪われた乃木は、敵中に突入してこれを奪還しようとしますが、部下に諌められ取り戻すことができませんでした。これを恥じた乃木は自殺を企てますが果たせず、苦悩の末やがて死を超越し、第一線で奮闘しはじめます。しかし、生涯痛恨の念止みがたく、日清・日露の大戦で死ぬことのできなかった乃木は、明治天皇崩御を見届け殉死。遺書には死に場所を求めた一生が記されていました。
軍旗紛失事件のその後(西南の役・歴史紀行より)
明治10年9月24日、城山の陥落で西南戦争は終わりを告げました。でも、熊本の戦闘で乃木希典が紛失した軍旗はようとして行方が知れません。政府は取り返したと言っていましたが、実際は違っていたようです。
実はこの軍旗、薩軍が奪ったあと村田三介という男に褒美として与えられていたのです。ところが彼は山鹿で戦死してしまいました。そこで薩軍は遺品とともに軍旗を未亡人の佐和子に送り届けたのです。夫人は肌に巻きつけたり、ふとんの中に縫い込んだりして政府や警察の目を避ける苦心を重ねました。それでも危ういというので、実家の庭の小さな屋敷神の堂のなかに隠していたのですが、密告する者があり警察署長から厳しい尋問を受ける羽目になります。しかし、頑として口を割らない彼女に警察は、拘留して、生まれたばかりの長男と引き離すといって脅かしました。親としての情に耐え切れず、佐和子はついに白状してしまいます。軍旗紛失から11カ月後、明治11年1月24日のことでした。