熊本城の戦い

天下の名城を証明。薩軍の猛攻に耐える。

2月15日
すでに薩軍の前衛は熊本城に向かって出発を始めた。熊本城では砲台、保塁の増築、木柵の構築、食料搬入等の戦闘にそなえた準備が始められた。一気に熊本城は緊張した。西南戦争が始まったのである。

2月17日
城の外側の防備を終えた熊本鎮台は、この日新堀門より法華坂の一般人の通行を止め、城の周囲に哨兵線を張った。熊本城は警戒態勢に入った。

2月18日
熊本鎮台は将校家族を熊本城へ入城させた。この頃、熊本城下の各町内(内坪井連、千反畑連、水道町連、高麗門連等)の学校党の青年組織である連を中心として治安を守る目的で鎮撫隊が結成された。旧士族幹部はこれによって多くの士族を参加させ、後で薩軍に加わろうともくろんでいた。後の熊本隊である。
「薩軍先鋒すでに佐敷に至る。20日、21日開戦予定」熊本鎮台は陸軍省へ打電した。
午後2時、非常号砲を合図に熊本鎮台は篭城。県庁は城下住民に避難を命じ、政府は征討令を発して九州へ征討旅団の出動命令を下した。

2月19日
薩軍の専使を追い帰した谷干城熊本鎮台司令長官は「正午をもって、城の周囲の障害物を取り除き、民家を焼き払うこと」を命じた。
午前11時40分すぎ、熊本城から黒い煙があがり始めた。正午、城の周囲を清野と化す非常号砲が三発鳴る頃、一の天主、二の天主は炎に包まれ、人々に戦争が現実のものとなったことを告知する結果となった。熊本城炎上の煙は天に龍の昇る如く、はるか遠く阿蘇や玉名からもながめられたという。
城下の人々は郊外へ郊外へと避難し始め、そのどさくさの中に焼け落ちる城を見た。二百有余年、仰ぎ見て育った熊本城。その焼失の様を士族は涙をふき、住民は恐ろしいことでございますとふるえ、共に悲しんで見た。谷干城熊本鎮台司令長官は「堅壁清野」の篭城策を断行したのである。

2月22日
午前3時川尻を出発した薩軍は熊本城に総攻撃をかけた。
桐野利秋、池上四郎の正面軍約2500は新屋敷方面から白川を渡り、千葉城、埋門を攻撃。篠原国幹、村田新八、別府晋介の背面軍約3000人は新町、高麗門から段山、藤崎台を攻めた。
しかし千葉城の官軍守兵も善戦、薩軍はここでも突入できず又埋門(錦山神社)へ進んだ。薩軍も戦況を進展できず、ついに正面軍は寺原へ退いた。背面軍は段山に進出、藤崎台から漆畑、片山邸方面で激戦となったが夕刻には退いた。

2月23日
薩軍は総力をあげ、千葉城、埋門(錦山神社)方面、法華坂・段山・片山邸方面を攻撃。熊本城突入を試みたが、熊本鎮台も固守してこれを譲らなかった。薩軍の二日間にわたる熊本城攻略は不成功に終わった。

2月24日
午後になり薩軍は「対陣持久」の策をとることとなった。


3月12日
籠城軍警視隊の片山邸守備隊が段山に進出。激戦が始まった。

3月13日
段山をめぐる死闘白兵戦が続けられ、午後3時、官軍は段山の奪回にも成功。ここに陣地を構築し、砲二門をすえた。薩軍は熊本城攻略の一大拠点を失ったのである。

3月26日
薩軍は井芹川の石塘堰を止め、熊本城の水攻めを始めた。すでに北方田原坂で敗れ、なお植木、木留で戦っていた薩軍は兵の消耗も激しく、熊本城を囲む兵力にも不足をきたし始めていたのだった。

3月27日
熊本鎮台は新堀町、内坪井方面から出撃、京町の薩軍を攻撃した。別働隊も古京町より出撃、島崎、牧崎方面で激戦を交えた。薩軍の長囲が力をなくしたのをみて、官軍は籠城より反撃をするようになっていったのである。


4月8日
北進してきた官軍背面軍の川尻方面での砲撃が近くなった4月8日、熊本鎮台は奥少佐率いる突囲隊を川尻へ出撃させることになった。これを支援する熊本鎮台兵と薩軍の間で安己橋の激戦がおこなわれた。奥少佐は健軍、隈庄を経て宇土に至り、背面軍と合流した。

4月14日
元会津藩家老、官軍別働第二旅団山川中佐は川尻方面の緑川を渡河、熊本城へ向かった。午後4時、長六橋よりラッパを鳴らして整列、山崎錬兵場に達した。

4月15日
背面軍は熊本城入城。薩軍は白川以南へ囲を解いて、撤退した。

植木町在住郷土史家・勇 知之氏の協力により、著書「志に生きた男たちの足跡」から転載いたしました。