北の要害「田原坂」

田原坂より北は玉名、筑後平野。この平坦地を一階とすると、田原坂の約1500mは階段のようなもの。坂を越えれば植木・北部台地の平坦地(二階)を熊本城へ一直線。このように田原坂は熊本城から北に伸びる台地の北端、舌状台地にある坂です。

それゆえに、約三百年以上の昔、加藤清正が田原坂を北の要衝と認めていました。清正は熊本城から田原坂までの約四里(16km)を掘抜き道にしています。左右の畑より、道路が低くなっているのがそれです。田原坂はなだらかな丘をくり抜いて道が通っており、腹切り坂とも呼んだようです。

掘抜き道を進めば、左右から伏兵の攻撃を受けやすく、向坂では十四連隊が狭撃され軍旗を奪われ、田原坂でも官軍は苦戦を強いられました。しかも坂は蛇行して作ってあり、凹道を縦列に固まって駆け登ってくる官軍は、前方の林中より狙い撃たれました。さらに左右の高い林中より銃撃、退路を廻り込んで斬り込まれるという具合です。平地では大軍が有利だが、田原坂では数の利を生かせず官軍は攻めにくく、銃も少ない薩軍が守るに有利な絶好の防御地でした。

田原坂三の坂には、谷村計介の戦死の地の碑がたっており、その日付は田原坂の戦いの始まった3月4日です。薩軍はここに幾重にも塁を築き、断崖に塹壕を掘り、谷付近には無数の逆茂木を組んでいました。官軍は端的に言えば、この三百メートルを突破できず ”越すに越されず” 苦戦した訳です。

一見平凡に見える坂や丘ですが、以上の如き要害ゆえに、多くの若者の命を奪う激戦地となり、西南戦争の勝敗を分けました。

植木町在住郷土史家・勇 知之氏の協力により、著書「志に生きた男たちの足跡」から転載いたしました。