田原坂・一の坂

明治10年の西南戦争で、17日間にも及ぶ死闘が繰り広げられたのが、ここ田原坂です。県道鈴麦線と国道208号線が交差する場所に一の坂入り口があり、大きな看板が建てられています。ここから一の坂、二の坂、三の坂と続き、田原坂公園に結ばれています。明治10年西南戦争における田原坂の戦いは、3月4日から17昼夜にわたって行われましたが、官軍はここから出発したのです。

 

熊本城を築いた加藤清正は、ここを北の端の守りとして考えました。お城から植木町までの15kmを道を深く掘りこんだ凹道としました。凹道は、戦略的に道の両側に土手を積み上げた道で、この土手の後ろにかくれて、通過する敵を攻撃するように造られていました。

一の坂はうっそうとした木々に囲まれた勾配の急な坂道であり、前方の視界をさえぎるように曲がっていました。官軍は田原坂からの強行突破をあきらめていますが、それほど守りの堅い造りだったといえます。