植木学校と宮崎八郎

明治8年4月26日に開校した変則熊本県第五番中学校、通称植木学校のあったところです。場所は植木小学校校庭の南側の、道路沿いになります。ここは旧山本郡正院手永会所跡で、建物を改造して校舎としました。植木学校は熊本民権党が中心となり設立、運営した文明的中学校で、自由民権主義者の養成所といわれました。ルソーの民約論を経典とした青年の合宿所のようなものだったようです。

 

校長平川唯一、学務委員宮崎八郎等で城北各地から優秀な若者60名近くが入学しました。鹿児島私学校と気脈を通じ、戦闘訓練等も行われていました。のちに県と反目して補助金を打ち切られ、同年10月末閉校することになりました。西南戦争では、熊本協同隊を組織して薩軍とともに官軍と戦いました。

これは、現在の植木小学校校庭の正門近くに建てられている植木中学校記念碑です。宮崎八郎は、明治10年4月6日八代市萩原堤での戦いで、官軍の銃撃を受け亡くなりました。