Vol-2 沈殿すれど残る想い・・・


Formula-1 1994年


1994年5月1日、3度のF-1世界チャンピョン:アイルトン・セナは、世界中のファンに”最速レーサー”のイメージを残したままこの世を去った。あまりに鮮烈な幕切れに、当時はどう想えばいいのか?どう捕らえればいいのか?と思い迷ってしまったけれど、結局は静かに落ち着くのを待つしかない。

いまだに雄弁に語るほど落ち着いてはいないものの、あの事故から早くも10年以上が経過し、断片的な描写はできるようになった。”せっかく”という言葉には抵抗があるが、あの時、あの場所にいたのならば、自分の目で見たものと、自分の想いくらいは書いておこう・・・


そう思って書いたものです。結論めいたものはありませんが、Vol-3(準備中)に続きます。



1994年4月29日/サンマリノ・グランプリ第1日目
1994年4月29日金曜日。同行のKさんと共に宿泊していたミラノのホテルを朝の5時にチェックアウトし、列車でサンマリノ・グランプリが開催されるイモラの街へ向かう。F1グランプリの生観戦もこれで6戦目だが、熱狂度では他国を圧するイタリアでのグランプリ観戦は初めて。まだ暗い早朝の移動も全く気にならず、白々と空が明るさを増すと共に期待感が高まっていった。

まず1時間少々でボローニャへ到着。ここで30分ほど停車した列車は、誰がみてもフェラーリ・ファンといういでたちの人々をたくさん乗せてイモラへ向かう。イモラ駅からサーキットへのアクセスが心配だったけれど、これならフェラーリ軍団の後をついていけば問題なさそうだ。

イモラ駅は小さな駅。ひとつしかない出口を出ると静かな住宅地で、家の外に椅子を持ち出して語り合っているお年寄りがやさしく声をかけてくれる。本当にこんなところにサーキットがあるの?という雰囲気だが、20分も歩けば本物のサーキットが出現するのである。街とサーキットが溶け込んでいるこの風景は、日本では考えられないもの。これはお気に入りのグランプリになりそうだぞ!という期待に満ちていたのだが・・・。

初日から大きな破壊音に背筋が冷たくなる。ブラジル期待の若手ドライバーのルーベンス・バリチェロが最終コーナー付近で体勢を崩してクラッシュし、動きがみられないバリチェロは病院へ搬送される。身体に大きなケガはなく、意識も回復しているという報道に胸をなでおろしたが、”暗黒の週末”の兆しはすでに現れていたわけだ。

1994年4月30日/サンマリノ・グランプリ第2日目
予選2日目。私たちが陣取ったコーナーにジャン・アレジが現れた。テスト中のクラッシュで首を痛めて欠場中のアレジだが、グランプリの現場からは離れられないようで、コーナーでクルマの動きを観察したり、観客席から声援を送るファンに手を振ったりで忙しい。

そんなアレジが注目する中、ローランド・ラッツェンバーガーが乗るマシーンがコンクリート壁を直撃した。そして、衝撃を受けたマシーンは私たちがかぶりついていたフェンスの方向へ跳ね返され、数m先の芝生の上で動きを止める。あぁ、これはダメだ・・・と直感する。1982年にジル・ヴィルヌーブが亡くなって以来12年間死亡事故がないF-1グランプリ。クルマの安全性が格段に向上した現代のグランプリには安全神話さえも囁かれていたが、これはダメだ。あれだけの角度で横に曲がったら人間の首はもつはずがない。オフィシャルのスクーターに飛び乗ってすぐにその場を離れたアレジも同じ思いだったに違いない。

予選は即中断された。先ほどまで轟音がこだましていたサーキットが静まりかえる。もちろん観客も声がない。私も足首に力が入らず、その場から離れようにも足が動かず、ただ黙って立っていた。しかし、頭はいろいろと考えようとする。

視覚で捉えた情報からはラッツェンバーガーは亡くなってしまったことを確信せざるを得ない。しかし、なぜあれで死んでしまうんだろう?という思いがグルグルと回る。致命傷を与えた衝撃は、クルマがコンクリート壁に接触した一瞬に与えられたものだ。その一瞬とはどれくらいの時間だろうか? 十分の一秒? 百分の一秒? そんな短い時間で人間の命が奪われてしまうものなのか? 理論的に考えたら答えはyesだ。しかし、自分の視覚と理論を受け入れられない自分がいた。現場で走るF1マシーンから感じるエネルギーはもの凄いものだ。そのエネルギーはドライバーが発しているものでもある。ほんの数分前にあれだけのエネルギーを操っていた存在が、ただそこにあるコンクリート壁にコンマ数秒接触しただけで無に帰するのか?

グルグルと考えても、グルグルと回るだけ。しかし、午前中のセッションでラッツェンバーガーと僚友のベルモンドが、まさに同じコーナーで接触事故を起こしていたことを思いだすと、またもグルグルと思いが巡ってしまうのだ。接触自体はそう大きなものではなかったが、その時のクルマのダメージが今回の事故を引き起こしたのだろうか? 午前中の事故が無かったら、この事故も無かったのか? 逆に午前中の事故がもう少し大きくてクルマが完全に壊れていたら、ラッツェンバーガーは走らなかったかもしれない。

そんなことを考えていると、アイルトン・セナがオフィシャル・カーに乗って現場にやってきた。悲痛な表情でコンクリート壁前のコースの様子をジッとみる。「見ないでいいよ・・・」と呟く私。疑問に思うことは追求しないと気がすまないことも、何が起こったのか自分の目で確かめたいこともわかるけれど、見ない方がいいよ・・・。おそらく私と同じ思いのイタリア人男性がイタリア語で同じ言葉を投げかける


1994年5月1日/サンマリノ・グランプリ決勝 
手を振る姿で・・・
Show must go on. Race must go on.
ひとりの若者が亡くなっても、レースは続けられる。観客もラッツェンバーガーの事故を忘れたわけではないが、それだからこそ悲劇を乗り越えるエネルギーを期待して盛り上がる。前日の光景が目に焼きついて離れない私ではあったけれど、他の観客と同様に、不吉な流れをレース本番のエネルギーが吹き飛ばしてくれることを期待してピット前のスタンド席につく。

座るとすかさず販売促進活動のお姉さんから真赤なキャップを被せられる。これはフェラーリ狂の同僚へのお土産にピッタリ!なので、汚れないようにバッグにしまうと、また近くにやってきたお姉さんから真赤なキャップを被せられる。またお土産が出来ちゃった〜と喜んでしまうと、またまた別のお姉さんから真赤なキャップを被せられてしまう。ここに座るなら被れってことかい?! TV中継では、「ご覧ください!スタンドを埋め尽くす真赤なティフォシ(=フェラーリ狂)の集団を〜」とあおられるけれど、実態は販促活動の成せる業なのね・・・。

私たちの席のブロックを仕切る係員はブラジル人の中年男性だった。圧倒的多数のフェラーリ・ファンに気を使ってか恐れをなしてか、ブラジル国旗を持参しているものの、こっそりと上着の中に忍ばせており、チャンスをみつけては地味にパタパタと降ってはササッと上着に忍ばせる。その様子が可愛くて、一緒に口パクのセナ・コールで盛り上がっていると、そのセナが目の前のピットへ向かって歩いてきた。それまでの楚々とした国旗振りとはうって変わって、”せなぁ〜!”と叫びながらバタバタと国旗をアピールするおじさん。その声と姿に気づいたセナは、こちらを見上げると手を振ってくれた。もちろん喜んで手を振り返す私たちとおじさん。

”さよなら”のつもりではなかったけれど・・・。

スタートから暗雲
悲劇を乗り越えることを期待されたレースだったが、早々に暗雲が垂れ込めた。スタート直後の接触事故によりJ.J.レート車が大破。テスト中の事故で負傷し、このレースからようやくコクピットに戻ったレートだったのに散々の復帰レースとなった。しかし、本物の暗雲はそこから広がったのだ。事故の破片がおおかた片付けられて再スタートがきられた直後、セナがコースアウトしたことを伝える場内アナウンス。

”強敵”コースアウトの報に盛り上がるティフォシたち。またリタイアか〜と盛り下がる私たち。1994年シーズンのセナは開幕から全くツキがなく、優勝どころかポイントすら取れない状況が続いていた。このリタイアは厳しいけれど、また盛り返すしかないか・・・と七転び八起きの精神を高めていると、全てのクルマが最終コーナーへ戻り、そこで停止しエンジンを止めた。ほとんどのドライバーがそのままコクピットに留まるなかで、フェラーリのゲルハルト・ベルガーはクルマを降り、ヘルメットを外すと小走りでピットへ向かったのだ。

ピットロードへやってきたベルガーの表情をみて血の気がひく。そして、ひとりの男性がベルガーの両肩を掴んで必死に問い詰めている様子をみて、さらに不安が広がる。その男性はジョルジオ・アスカネリ。マクラーレン・チームのエンジニアだ。問いかけているベルガーはフェラーリのドライバー。コースアウトしたセナはウィリアムズのドライバー。マクラーレンのアスカネリはいわば門外漢だ。アスカネリほどの経験豊富なエンジニアが、レース中にライバルチームのドライバーに必死に話しかけるなんて通常ではあり得ないこと。つまり、尋常ではないことが起こったのだ。

考えたくないことが起こったことを察知させたこの光景は、当時からしばらくは辛い一場面として記憶に残っていたが、やがてまた違う意味を持つ光景へと変わっていった。セナとベルガーとエンジニアのアスカネリの3人は1992年までマクラーレンに所属していた。いわば元チームメイトである。チームメイトといっても、お互いに最大限の力を要求するプロフェッショナルな関係で、決して生やさしい同僚関係ではない。しかし、コンクリートウォールに激突したセナを心配し、跳ね返されたセナ車を一番近くで目にとらえたベルガーを心配し、チームの壁を越えて必死に問いかけていたアスカネリの姿に、共に高い結果を求めて闘ったプロフェッショナルな関係だからこそ得られた強い結びつきがみえた。

ベルガー降りる
Race must go on. 再びスタートが切られた。サーキットの現場では、事故の映像を目にすることができないため気持ちの持ちようがわからない。深刻な事故であったことは否定できないが、レースが再開されたことに心のよりどころをみつけようとした。しかし、その気持ちもレース途中でベルガーがピットへ戻りクルマを降りた時点で萎えてくる。プロのドライバーがクルマを降りたからには、クルマのどこかに問題があったのだろう。しかし、この日のベルガーはもう走れなかったのだと思う。前日には同じオーストリア出身のラッツェンバーガーが亡くなり、この日は元チームメイトが目の前でコンクリートに激突した。自分自身がレースができる状態ではないと判断しても無理はない。

フェラーリのベルガーがリタイアしたことで、当然ながらスタンドのエネルギーは急速に落ち込んだ。そして、ピットでタイヤ交換を終えたばかりのクルマからタイヤが脱却し、他チームのメカニックを直撃するという恐ろしい事故が発生した時点でスタンドは完全に静まりかえってしまった。ピットロードに救急車が駆けつけ、傷ついて動かないメカニックを救護するという異様な光景。それでもレースは中断されない。その判断に失望する。たまたまその時間帯にピットへ入るクルマはなかったものの、ピットロードを救急車が塞いでいる状態ではレースは成立しないではないか? 続けることは重要だが、止める判断と決断が出来ないものに続ける資格はあるものか?

ボローニャにて・・・
何ともいえない宙ぶらりんの気持ちでサーキットを後にし、ボローニャへ向かうバスに乗り込む。バスのラジオから聞こえるのはSerieAのユベントス対ウディネーゼの実況中継。ピッチのプレーを伝える実況の途中で、”セナ””コンディツィオーネ””コーマ”という言葉が聞き取れる。「コーマ」って映画があったな・・・。大病院が患者を昏睡状態にして臓器バンクにする恐ろしい話。タイトルの意味は”昏睡”。映画を観なかったら知らなかったであろう言葉の意味。でも、意識は回復するはず!きっと大丈夫!と自分に言い聞かせる。

バスがそろそろボローニャへ到着する頃になって、ラジオのサッカー実況音声が途絶えた。やめてよね・・・と思う。イタリアでサッカー実況が中断されるなんて尋常じゃないこと。そして、”F-1グランプリで3度の世界チャンピョン・・・”という出だしに、やめてくれ〜と思う。今さらそんな実績の紹介から始まるなんて、名誉の殿堂入りのニュース以外にはひとつしかない・・・。

ラジオの声は”モルト(亡くなった)””フィニート(終わった)”とハッキリと伝える。当時はまだまだ私のイタリア語彙は少なかったのに、なぜ知りたくもない情報はこれほどまでにハッキリとわかるのだろう。想像や誤解の余地を挟めない厳しいニュースほど外国語であっても明確だ。ラジオのニュースは、セナはまさにここボローニャの病院で亡くなったことも伝えている。

バスがボローニャ駅前に到着し、一緒に乗っていた乗客が駅前で涙を流している男性に確認に行く。私たちと同じくサーキットからバスや列車でボローニャに戻ってきた人が一杯で、その人たちの表情を見ているうちに私も泣けてきた。意地っぱりで、見栄っぱりで、テレ屋の私が人前で泣くことは滅多にないけれど、今はただ泣くしかない。ただ泣くしかできないことがあるんだ・・・。

この時は、なぜ自分が観に来たレースで死んじゃうんだ?という恨めしいことも考えてしまったけれど、後になって、自分がどこにいようとも悲しい事実が変わらないならば、どんな時でも信頼できる友人(Kさん)が隣にいて、素直にただただ泣くことを許してくれた土地にいたことが救いだったと思えるようになった。もし、いつものように自宅にいて、TV中継を楽しみに夜中にひとりで起きていて、いきなり事故の映像が目に飛び込んできたらたまらないもの・・・。

モータースポーツの母国=英国の敬意
ホテルの部屋でTVをつける。事故の映像なんか見たくもないという気持ちと、何が起こったのか知りたいという気持ちがない混ぜとなり、チャンネルを回し続ける。どのチャンネルもセナ一色だった。

ショッキングな映像を流すチャンネルと対照的だったのが英国のTV局。静かな音楽をバックに流れるのは、セナ・ファンにとって、このレース!この表情!というとっておきの映像だった。そして最後のナレーションでまたも泣けてくる。−−−「セナはかつて、コンマ1秒先のクルマの動きを予測することができると語っていた。今日、あの時あのコーナーで、セナは世界中の誰よりも早く自分の死を予測していただろう。」

ブラジルからやって来た最速レーサーに時として冷たかった”モータースポーツの母国”英国のマスコミだが、一連の事故報道からは真摯な敬意が感じられた。思えば、イギリスF3を皮切りに、セナがプロのフォーミュラカー・レーサーとして所属したのは全て英国のチームだったのだ。

アルボレートの涙
夜になると、イタリアのチャンネルでは事故の原因を追求せんとする討論番組が多くなった。そのひとつにゲストとして呼ばれていたF-1レーサーのミケーレ・アルボレートは、他のゲストが激論を戦わせるなかで、発言を求められた時のみ静かに語っていたのだが、そのうちに大粒の涙をこぼし始めた。その様子にスタジオも沈黙し、観ているこちらもまた涙。

この時に限らず、いつも言動に人間味を感じさせてくれたミケーレ・アルボレートは、2001年4月25日にル・マン24時間に向けたテスト中の事故で亡くなった。私がその事故を知ったのも、たまたま旅行でローマに来ていた時だった。4/25はアルボレート、4/30はラッツェンバーガー、そして5/1はセナ。毎年4月末から5月は美しい新緑を眺めながら速い男たちの冥福を祈る時期でもある。ありきたりな言い方になるけれど、きっと向こうの世界で思いっきり抜きつ抜かれつのレースを楽しんでいるに違いない。

ベルガーのブラジル感
私が帰国した頃にブラジルでセナの葬儀が行われた。ほとんど国葬といえるような規模で、いかにセナがブラジルにとって大きな存在だったかを思い知らされた。そして、ブラジルを始めとして世界中で何万もの人々が彼の死を惜しみ、もう一度走る姿をみたいと願っても、失われた命は決して戻ってこないことも思い知った。

改めて悲しみに沈むなか、ちょっぴり元気にさせてくれたのがゲルハルト・ベルガーのコメントだった。オーストリアでラッツェンバーガーの葬儀に参列した直後にブラジルへやって来て棺を抱えたベルガーは、ブラジル・グランプリに参戦するためにレーサーとして何度か訪れている国ブラジルに、また新しい印象を持ったらしいのだ。

「大勢の人々が悲しんでいたが、見事に統制がとれていた。戦闘機の表敬飛行も時間ピッタリに墓地の上空を通過した。まるでアイルトン(・セナ)が空の上から指揮をとっていたかのようだったよ。僕の国オーストリアは見渡せば国の両端が見えるような小さな国だ。ここは違う。アイルトンのような人物を生み出す国なんだなあと思った。」

いつだってベルガーのコメントには頷かされる。華やかな”スター”レーサーなのに、いつまでも”普通”の感覚を失わない。そんな彼のコメントを聞いて、改めてブラジルへ行きたいと思った。本当はセナが走るブラジル・グランプリを観たかったのだが、それが叶わなくなった今は、ちらりとでもいいから一度ブラジルという国を眺めてみたいと思う。

6年後
セナが走らないその後のグランプリも欠かさずTV観戦した。F-1グランプリそのものが無くなってしまえば、アイルトン・セナというレーサーがいたこともいずれ忘れられてしまう・・・。そんな思いからの観戦だったが、現場で観戦することはなくなった。観戦仲間のKさんが94年以降闘病を余儀なくされて旅行ができなかったということもあるが、生で観たい!そこで観たい!と思わせる存在がいなくなったからでもある。もちろんサーキットが怖くなったということも否定できない。

結局、6年後の2000年鈴鹿まで再びサーキットに足を運ぶことはなかった。

(「Vol-3 ”ありがとう”とねぎらいを・・・」に続く。)



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