推理・墓石と地蔵

 

疑問  地蔵は信仰の対象として安置されていると思いますが、その地蔵を墓石とする場合があるのでしょうか。

なぜこのようなことを考えたかといいますと、近所の墓地に墓石とともに、地蔵もあったからです。10年間も住んでいて、いつも通る道路わきの草やぶが、まさか墓地だとは気付きませんでした。墓石は小さく、1個だけのものです。高さも50cm程度ですから、雑草が生い茂り、墓石は隠れていました。この墓地ではお参りする人もなく、無縁仏の状態です。

 

 

推理  家族の冥福を祈るため、地蔵を墓(墓石)とした。石仏の地蔵を墓とした例がありますので、いくつか紹介します。

事例 墓地に墓を建てる場合、それなりの経費が必要です。墓石と地蔵のどちらが高価であったのか、私にはわかりません。しかし、地蔵そのものは小さいサイズになっています。何らかの理由で、墓石の変わりに地蔵としたのでしょう。亡くなった人が、子どもだったのかもしれません。
また、現代社会においては交通事故による犠牲者も数多くいます。供養のための地蔵が道路沿いに建立され、花が供えられています。それらは自殺した人も同様で、川の側に地蔵が建てられたり、線路沿いに地蔵が安置されています。この場合の墓は、また先祖代々と続く墓地にあるはずです。

事例 石仏として地蔵を墓石にする場合、年月日や氏名を彫らなければなりません。そのために都合がよいのが、石仏を乗せる台石と広い光背です。

放牛石仏の中に、墓石になっているものがありますので、紹介します。
第6体  この石仏は放牛が建立したにもかかわらず、後年に個人の墓に転用されました。享保8年(1723)に完成したものが、寛政6年(1794)に墓になっています。放牛が建立して、71年後のことです。

事例 放牛上人の墓は、地蔵です。放牛上人は、享保17年(1732)の11月8日に亡くなりました。放牛を尊敬していた横手村の人々が、放牛のために立派な墓を造りました。普通の墓でなく、放牛の意を汲んで地蔵菩薩としたのです。この年の肥後藩(熊本県)は未曾有の飢饉に襲われ、6000人以上の人が餓死しています。誰もが生活が苦しい中で、村を上げて浄財を集め、このようなことをしたということはすばらしいことです。

事例4 放牛石仏の107体のうち、最初の頃は年忌塔になっています。永田先生の考えでは、「講中」や「村中」の文字が表れる以前の石仏ということです。第9体から39体までが、年忌塔です。これらには、墓と同じように個人名が彫られているのもあります。