肥後の四街道

江戸時代に整備された町並みと道路を知らなければ、放牛石仏の調査は進まないと判断しました。そこで、加藤清正時代の大きな街道、豊後街道豊前街道薩摩街道日向往還の4街道を紹介します。なお、一里というのは現在4kmになります。大人の足でゆっくり歩き、約1時間の距離のようです。平成15年2月末。

当時の道路の出発基準は、新町1丁目の熊本YMCAの近くの公園・清爽園(せいそうえん)にあります。信号の近くに「史跡元標跡」の標木があります。熊本城は西を正面として造られ、新町を基準としたようです。

 

豊前街道は、熊本城から出発し、植木町や南関町を経由して、福岡県までの道のりです。途中の植木町からは二つに分かれ、山鹿市経由の道と、高瀬(玉名市)経由の道がありました。

豊後街道は、熊本城から子飼町、大津町を経由して大分県までの道のりです。現在の国道は大津から立野、赤水経由です。当時は大津から二重の峠を越えて、阿蘇町へ入りました。豊後街道は、細川藩も参勤交代で利用しました。

薩摩街道は、熊本城から長六橋を渡り、宇土市・松橋町・八代市・水俣市を経由して、鹿児島までの道のりです。八代市周辺の街道には、眼鏡橋が数多く残されています。放牛上人は、宇土市まででかけました。

日向往還は、熊本城から出発し、御船町・矢部町・馬見原町を経由して、宮崎県までの道のりです。当時はそれほど整備された道路ではなかったようです。放牛上人は矢部町にも石仏を建立しました。

江戸時代の道路を調べることは、放牛石仏がなぜここにあるのかという根拠になります。また同時に、肥後藩の熊本町の様子を調べることも興味があります。なぜなら、武家屋敷周辺にはないからです。ここで紹介した四つの街道については、それぞれについて詳しく紹介しています。そちらの方もごらんください。