放牛の時代背景

放牛上人が石仏を建立していた時代、つまり享保の時代とはどのような世の中だったのでしょうか。永田日出男先生が放牛石仏の会のために書かれた「放牛石仏の時代背景と建立の推移」から引用します。

1 享保時代の年表

西 暦

年 号

将 軍

肥後藩主

天    災

石仏
1722 享保 7年 徳川吉宗 細川宣紀 飢饉・洪水

1723 享保 8年 徳川吉宗 細川宣紀  

1724 享保 9年 徳川吉宗 細川宣紀 台風・旱魃

12

1725 享保10年 徳川吉宗 細川宣紀  

10

1726 享保11年 徳川吉宗 細川宣紀  

1727 享保12年 徳川吉宗 細川宣紀 飢饉・洪水

1728 享保13年 徳川吉宗 細川宣紀  

15

1729 享保14年 徳川吉宗 細川宣紀 飢饉・虫害・火災・暴風

18

1730 享保15年 徳川吉宗 細川宣紀 虫害・旱魃

12

1731 享保16年 徳川吉宗 細川宣紀  

16

1732 享保17年 徳川吉宗 細川宣紀 洪水・虫害・イナゴ大発生

1733 享保18年 徳川吉宗 細川宗孝 洪水・疫病・飢饉  

 

2 特筆すべき人災と天災

@ 享保17年(1732)

この年の11月に放牛上人は亡くなっていますが、西日本では歴史に残る天災が起きています。5月からの長雨で、緑川流域は大洪水となっています。虫害のため、稲作も不作でした。さらに、苦労して育てたイネも蝗(イナゴ)の大量発生で、食いつぶされています。このため、肥後藩(熊本県)では6125人が飢え死にしたという記録が残っています。農家にとっては悲惨な状況であったと思われます。放牛上人が亡くなった年に、このような天災が起こったことは悲しい事実です。
またこの年、江戸幕府は利根川普請を各藩に指示していますが、肥後藩は15万両の支出を負担しています。

A 享保18年(1733)

藩主が細川宗孝公になり、結婚式費用として3000貫が支出されています。また、参勤交代用に使用される船「波奈之丸」の建造費として、300貫が支出されました。この年は洪水・疫病・飢饉の年でもあり、農家の暮らしはきびしい環境におかれたものと想像されます。当時の税収入の中心は米でしたから、藩財政が苦しい場合、その取立ても激しかったことと思います。