鍛冶屋町の事件

 熊本県の路傍に石仏を建立した放牛は、幼い頃武士によって、目の前で父親が切り殺されています。この事実を記した記録が二つあります。一つは「奉行所日記」です。もう一つは、「旦夕覚書」です。原典については見たことがありませんし、その所在の場所も知りません。しかし、それらを掲載した書物を見ました。

「奉行所日記」は、肥後国誌に紹介してあります。その末尾に、「右大正十一年十月二十一日、中野嘉太郎氏持参之由にて、武藤先生より通知相成、同二十二日先生方へ参り、書類拝借来写取」 とあります。これは、郷土史の研究家・宇野廉太郎が知人に依頼していた史料が見つかったことを表しています。宇野廉太郎が放牛石仏の研究を開始したのは、大正8年(1919)のことです。

「旦夕覚書」は、「肥後文献叢書・第四巻」に掲載されています。明治43年4月に隆文館から発行された書物で、肥後孝子伝・堀内傳右衛門覚書・旦夕覚書・赤穂義士に関わる御預人記録などを集めたものです。
旦夕とは堀内傳右衛門と同一人物で、後に旦夕と号しています。堀内傳右衛門は赤穂浪士討ち入りの義士17人の、熊本での接待係をしていますが、大変懇切な対応をしていることは有名です。旦夕は享保12年8月に、83才で没しています。「旦夕覚書」は晩年に書き残したものですから、鍛冶屋町の事件については記憶をもとに編集したことになります。

ところで、次の文は熊本市池亀町にある放牛石仏34体に掲げられた、熊本市が設置した説明書きです。放牛上人の幼い頃の事件に関する記述です。この史実を裏付けるのが、「奉行所日記」と「旦夕覚書」になります。

放牛の石仏(三十四体目)  五代細川綱利公の頃、城下に貧しい鍛冶職の親子が住んでいた。父七左衛門は生来の大酒飲みの上怠け者であったが、子供は評判の孝行息子であった。或る日(貞享三年一月四日)酒のことで腹を立て、息子に向って投げつけた火吹竹が表を通りかかった武士 大矢野源左衛門に当ってしまった。当時十歳足らずであった息子の必死の哀願もきき入れず遂に父七左衛門を斬りすてた。
悲嘆やるかたなく仏門に入り放牛と改めて「十年間に百体の石仏を建立して父の菩提を弔わん」と発願し、百七体の石仏を建立して、その大願を達成した。この石仏は三十四体目である。享保十七年(1732)十一月八日没。墓は横手町四方池台にある。
   昭和六十三年    熊本市  

この話には、いくつかの疑問が投げかけられています。例えば、息子は親孝行だったのか、父は大酒飲みだったのか、息子は父のために許しを乞うたのか、また自ら仏門に入ったのかという点です。この四点については、「奉行所日記」と「旦夕覚書」のいづれも触れていないようです。

鈴木喬先生の「人づくり風土記」によると、熊本市池田1丁目・往生院の法話の内容から来ているようです。この法話の中に、上記四点のことが伝えられたようです。また、「奉行所日記」には姉の存在が記されていますが、母親についての記述はありません。同時に父親が投げたのも、「奉行所日記」には火吹竹となっていますが、「旦夕覚書」では割木となっています。
「往生院の法話」と「奉行所日記」と「旦夕覚書」の三つが混ざり、放牛石仏の説明書きに混乱があったのかもしれません。

次の文は、「旦夕覚書」から引用しました。

一 右の大矢野源左衛門皆共一同に新知被下候其翌年正月三日か四日に賓町山本玄長とか申彈藏方へ出入仕候其屋敷の近邊かちや町通り候刻子わるさ仕候親しかり ゝ 割木を投打仕候処に通り懸り源左衛門ひたひに割木當り少し皮打裂申候其儘親逃申候故追かけ打果申候其時分拙者追廻御馬御殿前通り申候・・・・(以下略)

偶然とはいえ、兄弟げんかを止めようとした父親の火吹竹が、武士の額に当ってしまったのです。当時の社会では身分制度があり、しかも武士による無礼討ちが許されていた時代です。兄弟(一人は放牛)は、恐怖におののいたことと思います。なお旦夕覚書文中の「わるさ仕候」は、奉行所日記では「兄弟口論仕候」となっています。

この後、大矢野源左衛門も取調べを受けますが、無罪となっています。兄弟も、数ヶ月間厳しく取調べられ、そして住む家もなくなったので、どこかのお寺に預けられたのでしょう。それからの消息はまったく分かりません。それは鍛冶屋町の事件があった貞享3年(1686年)から、放牛が第一体を建立した享保7年(1722年)までの記録がないからです。