石仏の研究者たち

熊本県に残る貴重な放牛石仏について、研究した人々を紹介します。

宇野廉太郎(うのれんたろう) 明治2年(1869)〜昭和35年(1960)

郷土史の研究家です。愛知県名古屋市の製糸会社に勤務していましたが、明治34年(1901)に肥後製糸会社に招かれました。もともと熊本市出身(熊本市北千反畑町生まれ)の人です。勤務の合間に郷土史の研究に力を注ぎ、特に放牛石仏の研究や豪潮律師の研究をしています。
最初に放牛石仏の研究を開始したのはこの人で、大正8年(1919)から放牛石仏を捜し回り、85体を発見しました。また豪潮律師に関しては、宝篋印塔(ほうきょういんとう)を多数発見しています。これら永年にわたる努力が認められ、熊本県近代文化功労者に顕彰されました。
昭和14年に「孝子放牛」と題して、発表しました。

内野栄太郎(うちのえいたろう)

宇野廉太郎の協力者として、放牛石仏を捜しました。その努力の結果、昭和13年(1938)に放牛の墓を発見しました。

生田宏(いくたひろし)

宇野廉太郎の協力者として、放牛石仏を捜しました。昭和12年頃に、「放牛地蔵の調査メモ、手紙」を出版しました。

内田辰雄(うちだたつお)

宇野廉太郎から送付された放牛石仏の所在地一覧表を元に、放牛石仏の調査を開始しました。昭和25年から9体の放牛石仏を発見しました。そして、調査結果を「放牛の石仏」として出版しました。図書出版は昭和40年10月です。

吉田孝祐(よしだたかすけ)

昭和41年7月に、「放牛石仏の写真帖」を出版しました。

永田日出男(ながたひでお)

1979年に文芸誌「舫船」(もやいぶね)を、創刊しました。1998年に78号で終りましたが、いろんな分野の方々が執筆しました。内田辰雄出版の「放牛の石仏」をもとに、放牛石仏を捜しました。熊本新評に昭和57年5月までに、37回にわたって「放牛」を発表しました。
平成元年1月に「他力放牛」を出版し、続いて平成6年11月には「放牛の風景」を出版しました。病気療養中でしたが、平成15年3月1日に永眠されました。

放牛石仏の研究は歴史が浅く、しかも熊本県だけの内容ですから、それほど多くの書物はありません。私が所有しているのは、永田日出男先生の「放牛の風景」だけです。この図書は、私にとってバイブルのようなものです。