享保17年の飢饉

放牛が建立した石仏は、享保7年(西暦1722年)から享保17年(1732年)の11年間に建立されています。第100体に示されたように、享保の時代は「天下和順日月清明」の世界だったのでしょうか。いいえ、洪水や虫害のために田畑はあれ、農民の生活は相当に厳しい時代だったのです。享保17年は、大飢饉でした。

まずは、永田先生の話を紹介します。著書「放牛の風景」より、一部引用します。

肥後近世気象災害記録に依ると享保年間の熊本は、次のような災害状況であった。
享保4年5月23日、洪水、田畑13万石損耗。仝年4月28日、熊本藪之内、1403軒焼失。
享保9年11月7日、凶作、旱魃、台風に付き、損耗31万560石。
享保14年8月19日、暴風。享保14年9月13日、暴風。
享保15年、秋、凶作、虫害並に旱魃にて領民困窮す。山野のすず笹の実なる、諸人餅にして喰う。

享保17年5月7日より洪水13日まで減水せず、ために田作腐れ、害虫発生、被害甚大なり。今年夏より秋にかけ蝗虫発生夥敷、稲作被害前代未聞。夏期の洪水損耗14万7800石、秋虫入損耗33万390石、合計47万8190石に上る。餓死者6125人。

享保18年5月10日、洪水、夏疫病(流行病)発生し死者多し。去年よりの西国筋大飢饉にて、本藩も野の草を食うに至る。
享保19年5月10日から15日、暴風雨、洪水12月9日、洪水、損耗高、36万石。以上の通り記録されている。

また、山川出版社から発行の「熊本県の歴史」に、享保の飢饉についての記述があります。内容はほとんど同じです。

放牛上人はこのような厳しい時代にもかかわらず、享保14年に18体、享保15年に12体、享保16年に16体、享保17年に8体を建立しています。この時期の石仏は、現在熊本市になっている農村が多いようです。ひょっとすると、干ばつや洪水の被害が少なかったのかもしれません。しかし、被害の大きな場所では、道端に餓死者が倒れていたことも想像できます。

 

熊本には天明年間(1780年代)に書かれた、「仁助咄」というのが残っています。農民の立場で書かれたもので、当時の藩政を批判しています。その一節を紹介します。永田先生の著書「放牛の風景」より、一部引用します。

小作農家はいずれも年貢が足らずして、牛馬、家財を売り、もとより粮物は残らぬように払うて、上納しても、たらずして、借りて納めんとすれども貸す人なし、とやかく延引すれば、一々会所に呼出して、しばりからげて責むれども、もと出来ぬものなれば、致すべき用もなし、しばりからけにあいながらは、才覚に参ることもならずして、なお延引すれば、日々にしめかたは手いたくなりて、どうにも堪忍ならずして、二、三日のうちにきっと納めますと、偽りていましめをのがれ、途中にて淵川に身を投じて死ぬものあり、首をくくって死ぬものあり、又宿元に帰りて、腹を切って死ぬものあり、それはそれは言語に述べられぬようにて。
さりながら死ぬる者はそれきりにて苦をはなれてよけれども、あとに残りたる老母や女房、幼い子供が身は、さてさて悲しいことじゃ、亭主は死ぬる。明日よりの粮物はなく、これもまた首をくくろうやもしれず。

享保17年の餓死者は6125人の記録ですが、実際にはもっと多かったことでしょう。食べ物が無くて餓死する場合、子ども、老人、病人が先になったかと思います。飽食といわれる時代に生きる私たちにとっては、想像を絶するものがあります。