石仏訪問紀行文 1

放牛石仏に魅せられて、熊本県内を巡りました。東は久木野村、西は長洲町、南は宇土市、北は菊鹿町と、放牛石仏の所在地は広範囲です。そして大半の放牛石仏は、熊本市内です。石仏を訪問しているときに、いろいろなできごとがあり楽しい思いもあります。そのような思い出を紀行文としてまとめました。

享保7年(1722)建立の第1体を訪問したのは、平成13年9月23日のことです。この日は田迎小学校の校庭で地域のゲートボール大会が行われていました。石仏が安置してある堂の周りには、彼岸花が咲き誇っていました。実にいい時期に来たものだと、何枚もの写真を撮りました。振り返ると理容店のおじさんが見ていましたので、撮影の許可をお願いしたところ、にっこり笑ってうなずいてくれました。エプロンをていねいにはずすと、白い卵の殻がいくつもついています。これは爬虫類の卵です。ある程度は手で落としましたが、なかなか取れません。仕方なくそのまま撮影しました。当時の道路状況から考えれば、ここは分岐点になります。東バイパスができたとはいえ、現在でも交通量が多い場所です。ここから南へは、御船・甲佐・矢部と続くことになります。ここの説明書きは親切で、文字の解説もしてあります。

近見町の第2体を訪問したとき、場所がわからず近所の方にたずねました。その方は近くまで案内してくれましたので、二度目からは一人で行けるようになりました。ここは個人の敷地内にあるため、どうしても勝手に入り込んでいるという気持ちが起きます。放牛上人は庶民から浄財を集め、その資金で石工に石仏を作るよう依頼しています。ですから、一つ一つの地蔵は作者が異なります。この石仏を作った石工は、技術的に下手です。光背に対して地蔵は小さく、迫力がありません。初めて「他力二体目」と刻んだ放牛も、気落ちしたのではないでしょうか。なお第2体の台石の下に基礎石がありますが、それが第104体のものです。この近くに、あるいは隣に並んで第104体があったのでしょう。地蔵の前を通る道は現在裏通りといった感じで、すぐ西側には国道3号線があります。

川沿いの建造物というものは、その時代によって天災で破壊されたり河川改修で移動しています。この第3体も白川の河川改修で移動したものです。お堂の中に第27体とともに安置されています。二つの地蔵は、作者が同じなのかはわかりませんが、両手に宝珠の地蔵立像です。第3体の傷みが激しく、光背も頭の上で真っ二つに割れています。石にも目があるという話を聞いたことがあります。前に倒れたとき、割れやすい条件があるはずです。前に倒れた石仏は多く、菊鹿町の第81体、長洲町の第76体、琴平町の第53体、横手町の第38体・・・と同じような割れ方をしています。そして割れる場所は、頭の上、首、胸と三種類あるようです。割れた後の処置も二通りあり、そのままだったりセメントで接いだりしてあります。割れた光背の上部を捜すことは、もう不可能でしょう。

春日4丁目の第5体は、花岡山の登山道にあります。加藤清正公は熊本城築城のための石を、花岡山から大量に搬出しています。その後享保8年(1723)に、この石仏が建立されています。花岡山は歴史の宝庫であり、桜の名所でもあります。登山道には桜並木が続き、中腹には神風連関係の官軍墓地があり、頂上には仏舎利塔がそびえ、熊本市内を一望できます。西に回れば、細川家ゆかりの北岡自然公園もあります。しかしここは、明治10年の西南戦争の舞台ともなりました。このお地蔵さんは、大砲を引いて山を登る薩軍兵士をながめたことでしょう。平和を願う放牛上人の祈りは、西郷隆盛に届かなかったようです。花岡山中腹から熊本城めがけ、大砲が発射されたのです。また残念なことに、この地蔵堂の横は、生ごみの集積場になっています。ごみの下に無造作に台石が置かれています。この台石が無くならないことを祈ります。

僧・放牛に関する逸話が残っているのが、ここ往生院です。放牛石仏研究のスタートは、往生院の法話を聞いたことから始まっています。ここに第6体と、大願成就の第100体があります。ステージのような場所の中央に安置されている大きな第100体を前にすれば、第6体は脇役でしかありません。しかも第6体は、個人の墓に転用されています。それは台石を見ればわかります。最初に訪れたとき、目の前の第100体に気をとられて、第6体のことを忘れてしまいました。第6体は野ざらしで、苔むしています。このうす緑色の苔は、水分だけで生きている植物です。真夏のかんかん照りにも耐え続け、少しずつ繁殖します。この苔を取ろうとして石仏をみがけば、やがて光背に刻まれた文字もうすくなります。
第100体の光背に刻まれた「天下和順」と「日月清明」が、放牛上人の心を読む手がかりと思います。2m近い高さの石仏・地蔵菩薩座像を見上げ、放牛は何を思ったのでしょうか。幼い頃、眼の前で殺された父親のことでしょうか。いや、そうではありません。父親の冥福を祈るだけなら一つで十分ですし、そのことを中心にすえれば庶民の協力と信頼はありません。父親が亡くなって30年経過したとき、いまだ武士に対する恨みが残っているとも思えません。なぞの多い放牛上人ですが、だからこそ石仏を訪ねて謎解きをする楽しみも増えます。いろいろな説があって、歴史はおもしろくなるのです。

放牛石仏第8体は二つあります。なぜ二つあるのかが疑問ですが、第30体も第40体も二つあります。第8体Aは島崎6丁目です。墓地正面の大きなマリア様の陰になり、裏側にまわらなければ見えません。墓地は元々人里離れたところに造られていますが、この周辺も住宅地になっています。道路沿いのために、墓地の中をうろつくと不審者に思われるようで、いい気持ちはしません。しかも、石仏は供養塔の横に並んでいますが、その基礎石はすべて墓石で造られています。墓が整備されたとき、無縁仏となった墓が転用されたと思います。ひょっとするとこの中に第8体Aの台石も埋没しているかもしれません。寂しい場所の寂しい墓ですが、地蔵の顔はかわいいので気に入っています。
第8体Bは、ここから近い島崎5丁目です。ここも墓地としては小さな規模で、現在は住宅に囲まれています。丘の上の墓地といった感じで竹やぶがあり、そこだけひっそりとしています。せっかくですから、第8体Aも第8体Bも人通りの多い道路近くに安置すればいいと思います。昔から地蔵菩薩は道端にあり、通行する人を見守ってきたからです。

さて、なぜ第8体が二つあるかというなぞに、私は挑戦しなければなりません。一つの仮説を立てたのですが、その根拠は第30体と第40体に適用できるものです。それは、建立された二つの石仏の距離に関係します。第8体は近距離ですから、同時進行の作製であっても番号を間違うはずはありません。第8体Aは10月、第8体Bは12月に完成しています。誤りに気づいた場合、私だったら第9体の番号は欠番として、第10体と彫らせたと思います。

またここで、第9体のなぞも発生します。この石仏は春日3丁目の堂にありますが、ここには第13体・第79体・無番号第2体・無番号第3体・無番号第4体が同居しています。つまり、なぜここだけに多くの放牛石仏が安置されているのかということです。
春日3丁目の堂を訪れたのは、平成13年12月30日のことです。バイクから降りて撮影しようとしたとき、リヤカーに花をたくさん積んで、行商のおばあさんがやってきました。挨拶代わりに訳を話しますと、すぐ隣の家に声をかけてくれました。家の中からもおばあさんが顔を出しましたので、格子戸をはずして中の石仏を撮影させてほしいとお願いしました。すると、ニコニコしながら了解してくれました。「この地蔵さんは有名だけん、よく人が訪ねてこらすもんな。よかばいた。」一度に六体も撮影できることは珍しいことですが、気持ちよく応対してくれた方にも感謝しています。しかし、この後が大変でした。すべての石仏に、いくつものエプロンがかけてあるのです。見守る人と花を生ける人がいる中で、まさか乱暴にはずすわけにもいきません。行商のおばあさんが言いました。「ほんにここのお地蔵さんは幸せだもんね。いくつもよだれかけば、もらわすもん。また新しかつば、つけとらす。」 お地蔵さんはいいですが、いくつも外す私の身にもなってほしいものです。特に堂の外に安置されている二つの石仏は、10枚程度のエプロンをしています。新しいエプロンを持ってきた人は、決してそれ以前からあったエプロンを捨てません。一年に一つでしょうから、10年分たまっているわけです。

なぜここだけに多くの放牛石仏が集められたのか、疑問が残ります。何らかの理由があったはずです。放牛石仏と知って、わざと集めたのかもしれません。それとも、集めなければならない理由があったのかもしれません。