肥後の町並み

 

熊本市の町並みは、加藤清正によって形作られたといっても過言ではありません。加藤清正の肥後入国は、1588年(天正16年)になります。そして、いよいよ加藤清正は、現在の熊本市のシンボル熊本城と周辺の町づくりに着手します。下の図は、熊本城を中心とした区画図になります。熊本市を流れる井芹川と白川を自然の防護壁と捉え、その中央に熊本城を配置しました。さらに坪井川を利用して、寺原から熊本城周辺・新町・古町へと堀を造っています。坪井川・井芹川・白川の三つの川は、加藤清正によって何度か改修されています。坪井川の流れは、下の図では点線になっています。

 

これらの中で、武士の住まいと町民の住まいは分けられています。町民・商工業者を住まわせた場所は、細工町・米屋町・紺屋町・呉服町・魚屋町・塩屋町などです。これらは、お城の南側になります。また、お城の正面(西側)には新町という商人の町を造りました。熊本駅の近くに古町の名称が残っているのは、加藤清正以前の古い町になります。

武士の住まいは、本丸・二の丸・古城町・宮内・古京町・千葉城町などになります。その周辺にも武士の住まいはあったようですが、商工業者の町とは区別されていました。山崎町・高田原町・手取町なども武家屋敷があったようです。

現在確認されている放牛石仏は、武士が住んでいたと思われる所にはありません。細川藩時代にも同じような町並みですから、石仏は町民が住んでいた町から見つかっています。熊本城から見れば、西と北と南の方角です。放牛の石仏建立は常に町民と農民のためでしたから、石仏の位置も納得がいきます。