推理・同一番号の謎

 

疑問  同じ番号の石仏が、数体あります。その理由は何でしょうか。

第008体A 熊本市島崎6丁目1。慈恵病院から左折し、ポレエルゴルフガーデンの東側墓地。
第008体B 熊本市島崎5丁目2。島崎交番先で右折して橋を渡り右折。福田さん方前の墓地。

第030体A 熊本市下硯川町。西里駅前から旧道へ右折して坂道の左。
第030体B 熊本市二本木3丁目6。田崎陸橋のすぐ東側。旧道に小さな墓地あり。39体もここ。

第040体A 菊池郡泗水町北田島天満宮前の三叉路。県道沿い。
第040体B 熊本市河内町大多尾。日吉神社の先から登り、薬師堂の右。

推理  放牛上人の勘違いから、同一番号になってしまった。

記録がありませんから、あくまでも推測です。第8体の二つは、距離が近い所にあります。村人が依頼したとき、石工には第8体を刻むように指示したと思われます。また別の村人が依頼に来て打ち合わせをしたとき、住所が同じだったために同一の地蔵と思ったのではないでしょうか。しかし、第8体Aは地蔵であり、第8体Bは阿弥陀如来です。石工との打ち合わせは、全く別の石仏でしたから、番号だけの勘違いということになります。

推理  石仏の距離が遠く、連絡が十分できなかった。

この推理は、第30体と第40体のそれぞれ二つについて考えられます。第30体の二つは、12月と1月であり、正月をはさんでいます。どちらも別々の石工が、石仏を平行して製作していたと思われます。永田日出男先生は、30という数字に意味があるので、田崎町の石仏が大きいのではないかと記されています。そうすると、田崎町の石仏が先に作り始めても大きすぎたために完成は遅れることになります。下硯川町の第30体Bが先に完成したために、30体となったことになります。

第40体の二つは、二月頃に完成しています。これらの石仏を建立した享保13年は、石仏の発注が多かった時代です。石工に指示したとき、番号は後で連絡をするかもしれません。しかし、車も電話もない時代ですから、放牛が制作の過程を何度も見に行ったとは思えません。同一番号に気付いたとしても、そのままにしたかもしれません。

放牛自身は、さほど番号にこだわったとは思えません。完成した石仏の番号を記録したのでしょうか。また、最初は第100体まで造るつもりはなかったと思います。なぜなら、第1体に番号を刻まなかったからです。しかし、講中・村中・町中による建立が開始されたとき、第100体を意識したのではないでしょうか。第40体ころの制作資金は、まだ托鉢による寄金だったようです。