放牛上人の生涯

放牛上人については不明な点が多く、その生涯はよく分かっていません。そこで推測を交え、また石仏の会の資料を参照しながら考察してみました。年令は、享保17年・1732年に満60歳で亡くなったと仮定して書いています。

1672年頃
後に放牛上人と呼ばれる男子が、熊本市に生まれました。今から300年以上も前のことです。父の名前は七左衛門といい、鍛冶屋町の鍛冶職人であったといいます。男の子は、二人兄弟でした。一説によると、父親は大変酒好きであったといいます。

1686年・貞享3年
1月4日のこと、二人の兄弟はけんかを始めました。父親はけんかをやめさせようと、近くにあった火吹き竹を投げつけました。火吹き竹は子どもに当たらず、ちょうど通りかかった侍・大矢野源左衛門に当たりました。怒った源左衛門は、その場で七左衛門を刀で切りました。

男の子(放牛)が、14才くらいの年令です。奉行所の取調べのあと、二人の男子はお寺に預けられたようです。この後、男の子(放牛)の行方はわかりませんが、どこかのお寺に預けられ修行を積みました。目の前で亡くなった父親のことも思い出し、辛い日々を送ったことと想像されます。

1722年・享保7年
放牛という僧が現れ、田迎町の道端に地蔵を建てました。この年、2体の地蔵を建てました。放牛の年は50才くらいで、熊本城近くの古大工町に住んでいました。当時の肥後は天候不順のために収穫も減り、飢えのために命を落とす人もいました。

1723年・享保8年
放牛上人はこの年、地蔵を7体建てました。地蔵には「熊本」「放牛」「第○体」の文字を刻みました。ときおり、自作の道歌を、光背や台石に刻んだこともあります。放牛が51才のときです。この年までに合計9体の石仏を建立したのです。

1724年・享保9年
放牛は、人々にお経をあげたり、ありがたい説教をして募金をしてもらいました。それを資金にして、この年は12体の石仏を建てました。第一体からすでに計21体の石仏を建立しました。放牛が52才のときですが、民衆のために一生懸命働きました。

1725年・享保10年
放牛は53才になりました。この年も願主となって、熊本の各地に10体の石仏を立てました。これで計31体の石仏を建立したことになります。石仏建立は軌道に乗るとともに、放牛の名が知れ渡るようになりました。

1726年・享保11年
放牛は54才になりました。石仏の最初の目標である第30体Bも完成しました。高さ46cmもある大きな台石を見て、石工に「願成就」と彫らせました。1月24日のことです。しかし、この後放牛は7月までの半年間、石仏建立を休みました。病気なのか、遠くへでかけたのか、それとも他に中断するような事件がおきたのでしょうか。この年に造った石仏は、4体のみです。計35体になりました。

1727年・享保12年
放牛は55才になりました。この年の石仏は、6体です。二ヶ月に一体の割合で建てたことになります。昨年に続き、早いペースとはいえません。願主となって建てた石仏は、計41体となりました。

1728年・享保13年
放牛は56才になりました。放牛は再び精力的に石仏建立を始めました。一年間で15体もの石仏を建立しました。彼の名は広く知られるようになり、菊池郡にも建立するようになりました。この年の石仏は15体となり、計56体になっています。

1729年・享保14年
放牛は57才になりました。放牛への石仏建立依頼が増え、しかも遠い村からの依頼も増えました。この年は石仏の数が多く、一年間に18体もの石仏を建てました。歩いて菊池郡や下益城郡にも出かけ、村人や町民の期待に応えました。石仏は計74体となりました。

1730年・享保15年
放牛は58才になりました。この年の石仏建立の特徴は、広範囲にわたったことです。放牛は、玉東町・植木町・西合志町・長洲町・益城町・菊鹿町・宇土市などに、石仏12体を建立しました。放牛の名が熊本県下に知れ渡っていたことでしょう。村人は講を立て、地蔵建立のための基金を集めました。これまでに建立した石仏は、計86体となりました。

1731年・享保16年
放牛は59才になりました。享保16年のこの年に、放牛は16体の石仏を立てました。正月の石仏が第84体であり、最後の石仏は第99体です。いよいよ大願成就の第100体は目前です。場所は往生院と決め、年内から石工と打ち合わせを繰り返し、その準備にかかりました。私の考えとしては、第100体のモデルは田崎町の第30体と思います。これまでに建立した石仏は102体なのですが、番号が重複している石仏が3体あったため、99体になってしまいました。

1732年・享保17年
放牛は60才になりました。大願成就の第100体目も完成しました。台石・蓮華座・仏体を合わせると、250cmにもなる大きな地蔵菩薩です。しかしそれでも、各地から石仏建立の依頼が続きます。断ることもできず、放牛は107体まで造ったのです。願主となって第107体を造ったのは、10月のことです。

災難や病気、飢えや苦しみから民衆を救おうとした放牛も力が尽き、ついに11月8日に帰らぬ人となりました。地域の人々は放牛の死を悲しみ、お金を募り、四方池に墓を建てました。放牛が願主となって建立した石仏の大半が、地蔵菩薩でした。ですから、その墓も地蔵菩薩にしたのです。左手に数珠を持ち、右手には錫杖を持ったりっぱな地蔵菩薩です。

地蔵菩薩は悟りを求めて修行中の身ですが、このとき放牛上人は阿弥陀如来になったのかもしれません。