放牛石仏の巡礼・1

所在地を基本として、放牛石仏を訪問しやすいようにまとめました。皆様方も友達を誘い、ぜひお出かけください。所在地ががわかりにくい場合は、石仏のそれぞれのページをご覧ください。

このページは、熊本城を出発して西方向への石仏を案内しています。横手町と島崎町は、加藤清正が整備した町人の町です。新町も当時からにぎわっていたと思います。一方段山は、藤崎台からなめらかな斜面が続き、井芹川まで達していたのではないでしょうか。新町・横手町・島崎町・千原台など当時の道が残されています。

まずは横手です。ここは熊本城の西になり、江戸時代から発達していた地域です。

第025体  熊本市横手4丁目7。本四方池(よもち)公民館前にある。

第038体  熊本市横手4丁目21。湧水池の横の地蔵堂わき左側。ぬれ地蔵。

第033体  熊本市横手5丁目12。井芹川四方池橋を渡り細い路地を進み右奥。石段の側。

放牛の墓  熊本市横手5丁目。新四方池橋を渡り階段から右奥。県警第二別館裏の墓地。

第073体  熊本市横手3丁目17。戸坂入口バス停から南へ250m直進し、左折する。

放牛がとても関わりを持っていた横手地区です。新町から一新小学校と西山中学校前を追加して、戸坂に向けて進みます。バス停「戸坂入口」を起点に放牛石仏を捜します。バス停から右(北)へ進めば、第025体・第038体を訪問できます。さらに井芹川を渡れば、第033体・放牛の墓を訪ねることができます。なお、第073体は一度バス停へ引き返し、南(花岡山)へ進みます。

 

 

島崎です。横手に近く、放牛は何度もこの周辺に来ていたことでしょう。

第086体  熊本市島崎2丁目33。千原台高校の東側にふくい電器がある。その向かい側近く。

第008体B 熊本市島崎5丁目2。島崎交番先で右折して橋を渡り右折。福田さん方前の墓地。

第008体A 熊本市島崎6丁目1。慈恵病院から左折し、ポレエルゴルフガーデンの東側墓地。

無番号5体 熊本市島崎7丁目。鎌研坂(かまとぎさか)を登りつめて県道に出た所。

島崎地区は横手地区に近いわけですが、千原台によって分けられています。しかも範囲が広く、金峰山に向かって坂も多くなります。直接車で行くのであれば、新町電車通りのトンネルを利用したほうがわかりやすいでしょう。千原台高校近くの第086体を先に訪問し、一度元の場所へ引き返すとよいでしょう。第008体B第008体Aは、近い場所になります。現在は住宅地になっていますが、どちらも墓地であることを考えれば、当時は静かな場所だったと思われます。
さて
無番号5体ですが、島崎から西へ進めば植木市で有名な岳林寺へ着きます。さらに山に向かって登れば鎌研坂へ行けます。登りつめた所に石仏はあります。私の場合は車で本妙寺から向かいました。この道路は県道1号線で、峠の茶屋への道路です。峠の茶屋手前500m位のところに、公園があります。その隅にこの石仏があります。

 

 

戸坂から西へ。この道は高橋町を経由して、小島・河内へ行けます。

第089体  熊本市戸坂町18。県道から入った所に戸坂公民館がある。その前の堂の中。

第091体  熊本市池上町2045。松岡新太郎さん宅ブロック塀の角。

第088体  熊本市上高橋町天社宮の大楠の根もと。坪井川と井芹川合流点のすぐそば。

第099体  熊本市谷尾崎町の山中。金峰山少年自然の家を右手に見て15分徒歩で下る。

横手地区案内の説明の続きになります。バス停「戸坂入口」からそのまま西方向の上り坂・戸坂へ行けば、戸坂公民館前の第089体を訪問することができます。この後は元の道へ戻り、坂を下って池上町へ出ます。池上小学校前を過ぎると井芹川に橋がありますので、これを渡り、すぐ左折します。500mほど川に沿って下ると、右手に集落があります。そこに第091体がありますが、分かりにくい場所ですから尋ねたほうがいいでしょう。さて上高橋町の第088体は、坪井川と井芹川の合流点です。大きな楠がそびえている横に小さなお堂があります。
第099体は谷尾崎から徒歩で行くこともできますが、金峰山少年自然の家から捜した方がよいでしょう。

 

 

高橋から河内へ。この三体は海岸線に沿って訪問できます。

第021体  熊本市松尾町上松尾。大石建築作業場前。松尾東小学校近く昭和橋手前100m。

第085体  熊本市松尾町近津。近津川に沿って上る。鹿島神社からさらに200m程先の川沿い。

第063体  熊本市河内町清田(せいた)。産交バス下清田バス停の左。

高橋町からさらに海岸線に沿って、西へ進みます。この3体は距離が離れています。第021体は、松尾東小学校の手前にあります。第085体も国道からそれて、近津川に沿って登ることになります。第063体は、国道から河内中学校前の橋を渡り、右折したあと直進します。1720年代当時の道路状況は知りませんが、高橋・小島・河内・玉名・長洲への道が海岸沿いにあったのかどうか疑問に思っています。それは干拓が進み、元の海岸線がわからないためです。

 

 

河内です。峠の茶屋近くの二体になります。第99体も途中にあります。。

第041体  熊本市河内町岩下。峠の茶屋から直進し、岩下ハイキングコース立札から左へ下る。

第017体  熊本市河内町大将陣。左折すれば金峰山少年自然の家へ行くT字形交叉点。

同じ河内町でも、この2体は別の場所です。本妙寺から金峰山に向かいます。第041体は峠の茶屋から直進し、岩下ハイキングコース立札から左へ下りますが、捜しにくいかもしれません。台石と笠石なので、まるでシイタケの形をしています。第017体はすぐに分かります。

 

 

河内です。金峰山周辺にもたくさんの石仏を残しました。

第084体  熊本市河内町野出西。産交バス野出線の野出バス停から上に上り、春日神社左。

第097体  熊本市河内町黒石。黒田さん方の前、道端。大きなフジの木の根元。

第040体B 熊本市河内町大多尾。日吉神社の先から登り、薬師堂の右。

第102体  熊本市河内町東門寺西。東門寺バス停から入った共同墓地。高台の樹木内。

河内町は旧吉野町と合併した町ですから、かなり広い地域になります。私も最初は何度も道に迷い、行ったりきたりしました。車にはナビがありますから便利ですが、バイクで走り回るときはどこまでも行き過ぎます。この四体は、地図の下調べをしてから出発してください。放牛が石仏を建立するときに現地へ行ったとすると、相当な距離を歩いています。

 

 

遠距離になります。放牛はここまで歩いて出かけたのでしょうか。

第072体  玉名郡玉東町原倉本村。清田酒店左の地蔵堂。Y字形交叉点の右奥。

第076体  玉名郡長洲町上沖の洲。名石宮神社から東へ300mほど直進した場所の地蔵堂。

第072体は豊前街道になります。この石仏は、元は吉次峠にありました。西南戦争のとき、薩軍の身代わりになったと伝えられています。県道鈴麦線の途中から左折して、原倉へ進みます。第076体は、石仏の中で最も西に位置します。目印は名石宮神社です。