道歌の解釈その1

放牛が願主となって建立した石仏には、道歌(どうか)が刻まれています。道歌が彫られている場所は、舟形光背や石仏が乗っている台石です。この中には放牛自身の心を詠んだ歌や、人々の不安を取り除こうとする歌と思われるものがあります。さて、これらの道歌を現代風に解釈してみます。私には歌の知識もないために、解釈が独断になるかもしれません。そこで、この歌はこんな風に考えるべきだと思われる方は、ご指導をお願いします。

第003体  第005体  第075体
過去よりも 未来に通る 一と休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け

第3体と第5体は初期の作品であり、石仏は自然発生的な石仏または餓死者の墓と考えられています。

どんなに苦しい生活であっても、過去を振り返る必要はない。死をおそれ悲しむよりも、これからは阿弥陀仏の住む世界で暮らすことができるではないか。その世界は極楽浄土の世界であり、どのような悩みや苦痛、煩悩もない世界である。そのことを思えば、現在は一休みしているようなものである。

第006体
一度も 佛をたのむ行者とて まことの法は 叶いこそすれ

第6体は建立された後、個人の墓石として転用されています。

仏に仕える人は多い。仏の教えを守り、一生懸命修行しているのである。しかし、仏の教えを理解しようとしている人でも、本当に極楽浄土に行けるかどうかはわからないのである。それは、仏の存在を信じていないからである。皆は仏を信じ、南無阿弥陀仏の念仏を唱えなさい。そうすれば一度だけでも唱えることで、人々は極楽浄土の世界に行くことができよう。

第007体
なむあみだ なむあみだぶつの 外は皆 思うも言うも 迷いなりけり

放牛が学んだものは、浄土真宗ではないかと考えられています。

死者を弔うことは、家族や親族にとって大変悲しいことである。死者の冥福を祈り、皆で南無阿弥陀・南無阿弥陀仏を心を込めて唱えようではないか。そのことで、必ず本人も家族も極楽浄土の世界へいくことができよう。現在の生活はきびしいけれども、心を一つにしてがんばろう。いろんなことを考えたり、仲間と話し合ったりするけれども、愚痴や悪口になってしまう。そのような事はすべて、人々の迷いである。

第014体
放牛は 湯屋の如く 世上の人は 入りての如し

私自身は、銭湯・風呂屋のようなものだ。お金を払えば、善悪にかかわらず誰でも迎え入れている。世の中の人々は、そのお風呂に入りにくるようなものである。どのような人であってもみちびくのが、私たちと仏の仕事である。お風呂に入れば、身体の汚れもとれて悩みや苦痛もなくなり、阿弥陀如来のもとへ行くことができるであろう。

第019体
銀もちも 穴のはたまでちがえども それからさきは おなじ土くれ

銀もちは、かねもちと呼びます。江戸時代の支払いは銀だったからです。

私たちはその日暮らしの生活に追われ、蓄えたお金もない。一方ではたくさんお金を所持している人々がいる。不公平な世の中ではあるが、死後の世界はみな平等である。墓穴に入るまでは貧富の差はあるが、墓に入れば、土と化してしまうではないか。死後の世界や死を心配することはない。阿弥陀仏は、誰に対しても公平にみちびいてくれるであろう。

第020体
世をすくう心は われもあるものを かりのすがたは さもあればあれ

人々は借金したりして、生活も苦労の連続である。そのような人々を救うのが、仏に仕える私の役目である。しかしながら、現在も修行中のこのような姿であるから、思うように人々は話を聞いてはくれない。お地蔵さまもおなじで、いずれは如来になる方である。仮の姿ではあるが、これからも修行を積み、きっと人々を救うように努力しよう。

第021体
何に思う 何をか嘆く 世の中は ただ転ねの 花の上の露

いつの時代でも人々は生活しながら悩み苦しみ、そして災害や不幸があれば嘆き悲しむのである。しかし、私たちは何があっても必要以上に嘆いてはいけないのである。なぜなら、この世界は仏の世界である。そして、そこに住む私たちは、仏の手のひらの上にいるようなものである。私たちはハスの花びらに乗っている一個の水滴であり、常に仏に守られているのである。どのように心配なことがあっても、仏を信じようではないか。そうすれば、今の苦しみから逃れることができる。

第022体
盗人も とられるわれも もろともに 同じ蓮の うてななるらむ

放牛は道端で説教・説話をしながら、浄財を集めました。その貴重なお金を用いて石仏を建立したのですが、盗られたことがあったのでしょうか。ハスの台(うてな)とは、仏像を安置する蓮華座のことです。

せっかく集めた貴重なお金を、盗人にとられてしまった。これではお地蔵様の建立が遅れてしまう。しかし、盗られたお金もいつの日か、仏の役に立つかもしれない。ひょっとして、盗人の家族が飢え死にしないのかもしれない。考えてみれば、この世界は汚れきった池のようなものだ。そのような中で、私たちは一生懸命生活をしている。汚れた池であっても、あのようにきれいなハスの花がさくではないか。盗人も人々も、そして私もいづれは仏に仕える身になるのである。

第024体
人問わば 山を川とも答うべし 心と問わば 如何に答えん

人々がいろんなことをたずねてくるときがある。場合によっては、山を指さして、あれは川だと言うこともできる。生きていくためには私もウソをつくことがある。このような苦しい生活をしていれば、それも仕方ないことである。しかし、私の心の本心はと聞かれれば、何と答えようか。地蔵菩薩を路傍に建立するのは、すべての人が極楽浄土に往生するように願っているものである。しかし、本当は政治がよくなり、人々の暮らしが楽になることを願っているのである。

第025体  第035体
たてまつる 蓮の上の露ばかり われを守れと 三世の佛に

蓮の上の露を見なさい。これは、仏様の世界に生きる私たちの姿と同じである。汚れた土の中から、このように美しい蓮の花が咲くではないか。皆と一緒に、念仏を唱えようではないか。過去・現世・未来の仏をたてまつり、南無阿弥陀仏と唱えれば、必ず極楽浄土の世界に行くことができよう。

放牛地蔵に関する資料は、郷土史サークル・放牛石佛の会の皆様方のご好意により、貴重な研究資料を使用させていただきました。