道歌の解釈その2

放牛が願主となって建立した石仏には、道歌(どうか)が刻まれています。道歌が彫られている場所は、舟形光背や石仏が乗っている台石です。この中には放牛自身の心を詠んだ歌や、人々の不安を取り除こうとする歌と思われるものがあります。さて、これらの道歌を現代風に解釈してみます。私には歌の知識もないために、解釈が独断になるかもしれません。そこで、この歌はこんな風に考えるべきだと思われる方は、ご指導をお願いします。

第029体
世の中は 風に木の葉の 裏表 どうなりこうなり どうなりこうなり

第29体は仏体にも、台石にも道歌が詠まれています。

この世の中に住んでいる我々は、木の葉のようなものである。一旦枝から落ちた木の葉は、世の中の風にもまれて裏になったり表になったりしてしまう。長い人生を送っているといろんな困難な場面に遭遇するけれども、何も悩んだり落ち込んだりする必要はない。そのときは辛いかもしれないが、何とかなるではないか。あまりくよくよせずに、自然の流れに任せよう。

第029体
いう人も いわれる我も 諸共に 同じ蓮の うてななるらん

いろいろ無理難題を言う人がいて、困ってしまう。そして、言われる人も、それを聞くたびに嫌な思いをする。しかし、よく考えれば、どちらも仏の世界に住んでいる同じ人間である。私たちは皆争いごとは止めて、仲良く生きていこうではないか。私も仏もすべての人々の幸せを願っているのである。
※ 蓮(ハス)〜仏像の台座に彫られている。蓮華座。   うてな〜台と書く。

第036体
ゆめの世に またまぼろしの 身がいきて うつゝにかよう 人もまたある

夜、夢を見ることがある。その夢の中に自分自身が現れ、仏様の所へお参りに行くのである。周りを見渡せば、また多くの人々がお参りをしているのである。その夢が現実のようでもあり、何とも不思議な感じがする。これからも修行を重ね、多くの人々を悩みと苦しみから救済しなければならない。

第036体
じごくのさたも 法がする とかく佛も 心ほどはひからず

地獄のような世界でさまよう人々の処理も、つまりは世の中のきまりによっている。最も苦しい立場にいる人々を分け隔てなく救うのが、仏の教えではなかったのか。同じように死者への供養も、金によって左右されているのではないか。私が信じた仏は、すべての人々を平等に扱って救ってくれるものと思っていた。もし、そうでなければ、仏は光輝いて見えないのである。

第038体  第067体  第071体  第073体  第074体
三界の 衆生をのせる 放れ牛 地蔵まいりの 人をみちびく

悩み苦しんでいるすべての人々を乗せて、私は導いているつもりである。何も遠くにある有名な寺に行く必要はない。いつでもどこでもお参りできるように、私は地蔵を路傍に建立しているのである。いろんな悩みがあれば、いつでも近くにある地蔵に来ればよい。皆の悩みや苦しみがなくなるよう、私(放牛・放れ牛)も努力しよう。
※ 三界(さんがい)〜心をもつものの存在する欲界・色界・無色界の三つの世界。仏以外の全世界。

この道歌は、享保14年と15年にかけて5体の石仏に詠まれています。放牛が数多く建立した時代です。本人もこの道歌が好きだったのかもしれません。

第041体  第044体  第051体
かみほとけ おがまぬさきに おやおがめ かみやほとけも うれしかるらん

人々は皆困ったときには、神様仏様と拝んでいるようだ。それはそれで良いことだが、まずは親を拝むべきである。親を大切にし、親孝行をすることが幸せにつながるのである。決して親の恩を忘れることがあってはならない。親孝行をすれば、家族も仲良く暮らすことができるから、神様仏様も喜んでくれるであろう。

第044体
世の中は 火宅ときけど すみやすき つながぬ牛の 身こそやすけれ

私たちが生きている現世は、火災にあった家のようなものである。どうしてよいか分からないけれども、私にとっては住み易いと考えている。なぜなら、私は誰にも束縛されず、しかも野に放たれた牛のように自由に生きている。心はいつも平静を保っているので、悩んでいる人々に話ができるのである。
※ 火宅(かたく)〜三界に平安のないことを、火事にあった家にたとえたもの。

第047体
あればなる なければならぬ すずの玉 むねに六じのなくば となえず

鈴が鳴るというのは、手に持って振るからである。もし手元になければ、鈴を鳴らすことはできないのである。そのことと同じように、人々に仏を信じる心が欲しい。仏を信じていないのに、仏を拝んでもその効果はない。南無阿弥陀仏と唱えるときに、仏を信じている心があるならば、そのご利益もあることだろう。

第056体
雨あられ 雪や氷と へだつれど とくれば同じ 谷川の水

この世の中には、いろんな災いがある。災いのために、大切な作物が枯れることもあるだろう。大雨が降り、霰が落ち、雪が舞い、氷が張ることもある。これらに違いがあっても、解けてしまえば、どれも谷川を流れる水ではないか。私たちは武士・農民・商人と身分制度で分けられ、毎日辛い思いをしているが、死後の世界は仏様の世界である。何も恐れることはない。

放牛地蔵に関する資料は、郷土史サークル・放牛石佛の会の皆様方のご好意により、貴重な研究資料を使用させていただきました。