道歌の解釈その3

放牛が願主となって建立した石仏には、道歌(どうか)が刻まれています。道歌が彫られている場所は、舟形光背や石仏が乗っている台石です。この中には放牛自身の心を詠んだ歌や、人々の不安を取り除こうとする歌と思われるものがあります。さて、これらの道歌を現代風に解釈してみます。私には歌の知識もないために、解釈が独断になるかもしれません。そこで、この歌はこんな風に考えるべきだと思われる方は、ご指導をお願いします。

第060体
人々は 飴か 砂糖か 甘草か 弥陀は苦いが 口に言わねど

人々は、まるで甘い飴のようなものだ。また同じように、砂糖や甘草とも考えられる。口先だけで簡単に人をだまし、約束を破ったりするではないか。逆に甘い言葉につられ、だまされたりもする。しかし、阿弥陀は違う。阿弥陀の話されることは甘いのではなく、にがいのである。私たちにとっては厳しい教えもあるが、その教えを守れば必ずや幸せになれるはずだ。
※ 甘草〜マメ科の多年草。高さ1mほどになり、淡紫色の花が咲く。根に甘みがあり、乾草させて咳止めの薬とする。

第065体  第097体  第104体  第107体
一遍の 称名の下に 八十億劫の 罪を滅す

仏を信じることができれば、一度だけ、南無阿弥陀仏と唱えてみるがよい。阿弥陀はすばらしい方で、念仏を1回唱えるだけで、我々が犯した罪をすべて許される。どんなに大きな罪であっても、どんなに多く重ねた罪でも許していただけるのが、阿弥陀である。まず仏を信じることである。人々よ、私と一緒に念仏を唱えよう。

第075体
いう人も いわれる人も 諸共に ただひとときの 夢のまぼろし

この道歌は、第029体の「いう人も いわれる我も 諸共に 同じ蓮の うてななるらん」と似通っています。

権力を振りかざし、いろいろ無理難題を言う人がいて、困ってしまう。そして、役人に何かと言われる人も、それを聞くたびに嫌な思いをする。しかし、よく考えれば、どちらも仏の世界に住んでいる同じ人間である。今は辛い思いをしているけれども、ほんのしばらくの辛抱である。私たちは皆争いごとは止めて、仲良く生きていこうではないか。仏はすべての人々の幸せを願っているのである。極楽浄土の世界は、悩みも苦しみもない安らかな世界である。

第089体
花はくれない 柳はみどり 人の心に ふりやいらぬ

野原に咲いている花は、昔から赤いのである。川辺に育つ柳も、さわやかな緑である。それが自然であり、不思議なことではない。私たちの心も同じで、特別に違うことはないと思う。だから、無理に意地を張ったり、争い事をする必要はない。無理をすれば、心の中に苦しみや悩みが沸いてくる。素直な気持ちで仏を信じ、救いを求めようではないか。

第092体  第096体  無番号2体
親のまへ 不孝のみにて 神ほとけ たすけ給えと いうぞおかしき

この道歌は、第041体・第044体・第051体の「かみほとけ おがまぬさきに おやおがめ かみやほとけも うれしかるらん」と同じ意味だと思います。

人々は皆困ったときには、神様仏様と拝んでいるようだ。それはそれで良いことだが、まずは親を拝むべきである。親を大切にし、親孝行をすることが幸せにつながるのである。決して親の恩を忘れることがあってはならない。親孝行をすれば、家族も仲良く暮らすことができるから、神様仏様も喜んでくれるであろう。

第094体
植えてみよ 花の育たぬ 里もなし

この道歌は、五・七・五になっていて、他の道歌と異なります。単純な道歌ですが、私の好みです。学校では花を、畑では野菜を育てていますが、作業の励みになります。

どこに住んでいても、楽しい場所になるはずである。考えてばかりいないで、まず花を植えなさい。花が育てば、作物も育つはずである。花を見れば、人々に笑顔が溢れ、優しい心を取り戻すだろう。諦めずに、皆で頑張ってほしい。

無番号3体
なにごとの おわしますかは しらねども ありがたなさに なみだこぼるる

世の中には、えらい人がたくさんいる。お城にも役所にも、えらい人がたくさんいて、私たちに命令をしている。どんな人がいるのかは知らないけれども、ありがたいと思ったことはない。民衆のために働きもせず、私利私欲に走っているのではないだろうか。今、人々の暮らしを思えば、悲惨な状態ではないか。人々は年貢を納めることもできず、悩み苦しみながら、夜逃げをしたり、川に身を投じているではないか。そのことを思えば、涙がこみあげてくる。

※ 「何事」というのは、「何様」のつもりと言いたかったのではないかと解釈しました。石仏にそのまま彫れば、必ず役人の詮議を受けたと思われるからです。

無番号5体
分け登る ふもとの道は さまさまに 同じ雲ひの 月をながむれ

誰もが登ろうとする山があるとしよう。ある人は北から登り、また別の人は東から登ろうとする。山の頂上をめざす道は、ふもとにいくつもあるようだ。空を仰げば、雲の間からすばらしい月が見えている。その月を見る場所は人によって異なるが、どこであっても同じ月なのである。身分の高い人も、年貢を納めることのできない人も、この広い世界、仏の世界では皆同じなのである。

無番号6体
稼ぐに 追つく貧乏なきに 唱え念仏ばかり

我々は年貢を納めようと、一生懸命働いている。陽射しの強い暑い夏も、凍えそうな寒い冬も、豊かな暮らしを期待して働いている。辛いときもあるかもしれないが、心がくじけそうになったら、念仏を唱えるがよい。ひたすら仏を信じ、南無阿弥陀仏と唱えれば、必ず幸せになるであろう。路傍の地蔵が、我々を見守っている。

最後に一言

「楽天知命」という言葉があります。この意味は、次のようになっています。「天の定めを楽しみ、自分の運命を悟り、自然の理に任せる。だから心配事は何もない。」放牛上人が詠んだ道歌の大半は、この楽天知命に近いのではないかと思うようになりました。辛いことや悲しいことがあっても、決して他人のせいにすることなく、それも自分に与えられた運命なのだと。

放牛地蔵に関する資料は、郷土史サークル・放牛石佛の会の皆様方のご好意により、貴重な研究資料を使用させていただきました。