小泉八雲と地蔵

平成16年10月14日、私は熊本市坪井一丁目の地蔵堂に立ち寄りました。ここの地蔵堂は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と関わりがありました。現在の地蔵堂は新しいものですが、この堂の前に八雲は住んでいたのです。怪談話で有名な八雲は、明治23年4月に日本紀行取材のため来日しました。明治24年11月に、松江から熊本へ赴任したのです。

このお堂の向かいに、大きなビルがあります。そこに、小泉八雲の旧居跡(二度目の住居)であることを示す記念碑が建てられています。現在でも地蔵祭といえば、何か楽しいことがあるような気がします。もちろん地蔵菩薩の祭ですから、主役は子どもです。日本文化に興味を持っていた八雲にとっても、大変珍しい風習に思えたことでしょう。

八雲の著書「東の国から」の中で、ここの地蔵祭について記述しています。
7月25日。今週私の家には、いつにもない、三つの風変わりな訪れがあった。・・・・第三のおとずれは、この町のはずれの、ちょうど、わたくしの家のまん前にその堂がある。お地蔵さまのお祭を、なんとかそれ相応にとりおこなおうというので、その合力(寄付)をたのみに、子供連の総代がやってきたことであった。・・・・・・」 (生と死の断片)

当時は、もっと広い敷地があったと思われます。なぜなら、子どもたちの踊る屋台が設置されたと記述されていますから。私が幼い頃経験した地蔵祭を、八雲も同じように見つめていたようです。

昭和35年頃、私たちは小さな地蔵の前にお盆を持って集まり、道行く人を探しました。誰かが来れば、皆で取り囲んで叫びました。「お賽銭をお願いします。」 お賽銭は先輩が管理し、お菓子を買って皆に配りました。堂の軒下には盆提灯を下げ、地面には高さ50cmほどの砂山を作り、線香をともしました。

木製の白い説明書きがありました。正面には大きく「小泉八雲ゆかりの東岸寺跡の地蔵堂」と書かれています。側面には、次のように書かれています。

東岸寺は寛永9年(1632)に喜運観誉によって開かれた浄土宗の寺でしたが、明治以降廃寺となり今ではこの地蔵堂だけが残っています。小泉八雲は明治25年から27年にかけてこの地蔵堂の前に住んでいましたが、その間に行われた地蔵祭りの際にきれいに飾られた地蔵堂や門前の大きなトンボの作り物を見てびっくりし、また大変感心したそうです。この地蔵は弥陀六地蔵尊と呼ばれて尊崇されていましたが、昭和20年8月10日の戦災で焼失し、その後昭和24年に再興されました。

お堂の中に大きな六地蔵(灯篭のような形)が見えます。しかし、八雲が興味を示したのは、赤いよだれかけをした手前のかわいい地蔵ではなかったのでしょうか。また、お堂の中には二枚の印刷物が下げられており、詳しい説明がかかれています。その一部を引用します。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と東岸寺跡地地蔵尊とのゆかりについて
本地蔵尊は弥陀六地蔵尊と呼ばれ、八百年程昔、平宗清(出家して弥陀六)の作開眼であると伝えられています。世の安泰を願って諸国を行脚し、霊場に祈願し回るうち当地に聖気を感じてのことで、以後町民に厚く進行されて来ました。小泉八雲は約百年前来熊、この道向こうに二年間住み、町内の人々とも交わるうち熊本の良さも判ってきたようです。長男一雄さんが此処で誕生したこともあって、八雲には愈忘れ得ぬ土地となったようです。・・・・・(以下略)