放牛石仏・第1体

(場所) 熊本市田迎小学校入り口の交差点にあります。住所は出仲間8丁目4になります。東バイパスから入る場合、電気店「デオデオ」が目印になります。ここはY字型の交差点で、田迎小学校の正門前であり、旧浜線沿いになります。放牛上人が父の菩提を弔うために100体の地蔵建立を考えた、その一体目です。享保7年、つまり西暦1722年の製作です。いよいよこれから僧・放牛が地蔵の建立に入ります。平成13年9月23日に訪問しました。

          

(石仏) 安山岩製の舟型光背付き地蔵尊座像で、蓮華座を入れれば高さは75cmあります。両手に宝珠を持っています。地蔵の顔は磨耗してなくなっています。両手の周囲が白く見えるのは、トカゲの卵です。この卵は布製の前掛けがあると、時々みかけます。この石仏は享保7年(1722年)の建立です。

(測定) 蓮華座底辺からの全体の高さは、75cmあります。底から蓮華座の高さは15cmあり、仏像の高さは47cmです。台石は、横42cm・縦39cm・高さ21cmです。

(文字) 蓮華座の正面の弁(ハスの花びら)に、「放牛」と刻んであります。光背の右上に「他力」、左上に「熊本」と書いてあるのですが、顔と同じですりへっています。台石には文字が彫ってあるはずですが、いろんなものが置いてあり、よく見えません。説明書きに頼ることにします。

(備考) 一体目がどうしてここなのか、1722年当時のこの村はどんな様子だったのか、街道を行き交う人はどんな気持ちでこの地蔵をながめたのか・・・・・いろいろ考えると夢が広がります。第1体は座像ですから小さく感じますが、二つ目の座像は4年後の第30体Bになります。

(文献) 永田日出男著「放牛の風景」を参考にしてください。「放牛」の文字はあっても、「第1体」の文字は彫られていません。第2体が彫られていたので、この石仏はさかのぼって第1体ということになりました。

 

石仏の前に、詳しい説明が書かれた石碑がありましたので、原文のまま紹介します。

放牛石仏

江戸時代中期、細川六代宣紀のころ、熊本府(今の熊本市)に「放牛」という高僧がいました。放牛上人は、自ら願主となって農民や町人に喜捨を募り 享保七年より同十七年まで十一年間にわたり、百体をこえる石仏を建立しました。享保年間(江戸中期)の肥後は飢饉や洪水が多く、庶民の生活は困窮を極めていました。そのような人々を力づけ、精神的な救済をはかるために、放牛は各地に石仏の建立をすすめました。世にこれを「放牛石仏」と呼んでいます。この地の石仏はその第一体目で次の銘文があります。
「募化戮力 彫刻座像地蔵尊 立于道側 蓋普 結大縁 同生浄邦  享保七年壬寅五月 放牛」
布施の協力を得て、座像地蔵尊を彫刻し、路傍に建立します。一人残らず極楽浄土に往生しよう。と言う意味です。放牛上人の墓は熊本市横手五丁目にあります。  昭和五十八年十一月八日

    平成十年十月  贈  岡本 穣