放牛地蔵を求めて 

平成11年から放牛地蔵に興味をもち、熊本市を中心に地蔵をさがしました。一度ホームページにリンクしたのですが、せっかくの資料ですから、もう少し詳しく書いてみることにしました。平成11年9月7日に完成した「放牛地蔵を求めて」」を改訂いたしました。平成13年8月に、スタートページから作り直しています。歴史に興味のある方は、遠慮なくお立ち寄りください。記事の内容や写真に誤りがありましたら、私へ連絡お願いいたします。

001体〜005体 006体〜010体 011体〜015体 016体〜020体
021体〜025体 026体〜030体 031体〜035体 036体〜040体
041体〜045体 046体〜050体 051体〜055体 056体〜060体
061体〜065体 066体〜070体 071体〜075体 076体〜080体
081体〜085体 086体〜090体 091体〜095体 096体〜100体
101体〜105体 106体〜107体 無番号1〜5体 無番号6〜8体
放牛上人の墓 放牛関連資料

放牛地蔵
放牛という僧が、熊本市を中心に玉名、菊池、上益城、阿蘇などの街角や道路の分かれ道に建てた石地蔵のことを「放牛地蔵」と呼んでいます。ほとんどの地蔵に番号がつけてあり、107番まで確認されています。地蔵を建立した放牛については、悲しい史実が残っています。

製作年代
享保7年から享保17年。西暦1722年から1732年までの11年間。今からおよそ300年前の話です。やはり、石の建造物は長持ちします。地域の方が守ってきたため、保存状態はいいようです。

第一体目
発願をした第一体の地蔵は、熊本市立田迎小学校の正門近くの道端にあります。ただし、それ以前に造ったとされる作品も発見されています。

第百体目
大願成就の第百体の地蔵は、熊本市の池田町一丁目・往生院にあります。

地蔵の形と姿
地蔵立像と地蔵座像があります。左手に宝珠、右手に錫杖を持っているのが多いようです。阿弥陀如来・釈迦如来・聖観音・薬師如来などがあります。地蔵がほとんどのようです。

地蔵の大きさ
いろいろあります。等身大から50cm程度の地蔵といろいろです。全部同じだと思うと見落とします。

地蔵の特徴
舟形の光背がついています。その光背に「他力○体目」「願主 放牛」などが書かれています。正面から見えますので、捜しやすいです。また、直方体の台石にのっていますが、紛失している場合もあります。

地蔵のいわれ
江戸時代に熊本城下の鍛冶屋町に貧しい鍛冶職の親子がいました。親の名は七左衛門といいます。貞享3年(1686)1月4日、二人の男の子が表口でけんかをしていました。七左衛門が何度も注意しましたがやめませんので、手に持っていた火吹き竹を息子に投げつけました。それが不運にも家の前を通りかかった侍の大矢野源左衛門の顔に当たり、父親はその場で無礼討ちとなりました。
息子は父が殺されたのは自分の不幸のせいと嘆き、出家して放牛と名を改めました。30余年の修行の後、享保7年から享保17年にかけて父の菩提を弔うため107体の地蔵を建立しました。

未発見の地蔵
未発見の放牛地蔵の番号を記しました。みんなで捜しましょう。地蔵の特徴を覚えてください。
4,11,12,28,37,52,55,61,79,101,
道ばたといっても新しくできた道にはほとんどありません。江戸時代から使用されている道路です。道路の拡張と変更、河川改修、戦時中の空襲等で移動したり壊れたりしているものもいくつかあります。地蔵は動かさないでください。壊れかけている物もあります。

 

放牛地蔵に関する資料は、郷土史サークル・放牛石佛の会の皆様方のご好意により、貴重な研究資料を使用させていただきました。

一部の地域が熊本市に編入されたため、一部町名変更がありました。特に、北部町が変更になっています。