放牛石仏の概要

放牛地蔵
放牛という僧が、1722年から熊本市を中心に玉名、菊池、上益城、阿蘇などの道端に地蔵を建立しました。それらの石地蔵のことを「放牛地蔵」とか「放牛石仏」と呼んでいます。ほとんどの地蔵に番号がつけてあり、107番まで確認されています。番号がついていないのもいくつか確認されています。それらは無番号と呼ばれ、8体が確認されています。地蔵を建立した放牛については、悲しい史実が残っています。

製作年代
享保7年から享保17年。西暦1722年から1732年までの11年間。今からおよそ280年前の話です。やはり、石の建造物は長持ちします。地域の方が守ってきたため、保存状態はいいようです。

第一体目
発願をした第一体の地蔵は、熊本市立田迎小学校の正門近くの道端にあります。ただし、それ以前に造ったとされる作品も発見されています。

第百体目
大願成就の第百体の地蔵は、熊本市の池田町一丁目・往生院にあります。

地蔵の形と姿
地蔵立像と地蔵座像があります。左手に宝珠、右手に錫杖を持っているのが多いようです。阿弥陀如来・釈迦如来・聖観音・薬師如来などがあります。地蔵がほとんどのようです。

地蔵の大きさ
いろいろあります。等身大から50cm程度の地蔵といろいろです。立像は当然大きくなり、座像は高さも低くなります。全部同じだと思うと見落とします。

地蔵の特徴
舟の形をした光背がついています。その光背に「他力○体目」「願主 放牛」などが書かれています。正面から見えますので、捜しやすいです。また、直方体の台石にのっていますが、紛失している場合もあります。

地蔵のいわれ
江戸時代に熊本城下の鍛冶屋町に貧しい鍛冶職の親子がいました。親の名は七左衛門といいます。貞享3年(1686)1月4日、二人の男の子が表口でけんかをしていました。七左衛門が何度も注意しましたがやめませんので、手に持っていた火吹き竹を息子に投げつけました。それが不運にも家の前を通りかかった侍の大矢野源左衛門の顔に当たり、父親はその場で無礼討ちとなりました。
息子は父が殺されたのは自分の不幸のせいと嘆き、出家して放牛と名を改めました。30余年の修行の後、享保7年から享保17年にかけて父の菩提を弔うため107体の地蔵を建立しました。

未発見の地蔵
未発見の放牛地蔵の番号を記しました。みんなで捜しましょう。地蔵の特徴を覚えてください。
4,11,12,28,37,52,55,61,101,
道ばたといっても新しくできた道にはほとんどありません。江戸時代から使用されている道路です。道路の拡張と変更、河川改修、戦時中の空襲等で移動したり壊れたりしているものもいくつかあります。地蔵は動かさないでください。壊れかけている物もあります。

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